2019年08月21日

漢武帝 即位当初1 年若い武帝に変わって権力を握ったのは祖母の竇太后と、反乱を起こして敗死した臧荼の曾孫で重臣の田蚡

 武帝は強力なリーダーシップで前漢時代の頂点を築いたことで知られますが、即位したのは16歳ですから、まだまだ政治を見ることはできません。祖母の竇太后が実権を握ります。

 祖母の意向で、いとこに当たる陳氏を皇后に迎えています。陳皇后は景帝の同母姉である館陶公主の娘です。館陶公主は不仲な栗姫の子劉栄が即位することを望まず、弟の景帝に劉栄の悪口を吹き込み、武帝を褒めていました。こうしたこともあって劉栄は廃されて武帝が即位していますので、この伯母は皇帝にも頭が上がらない存在でした。

 また、重臣の田蚡もまた、力を握っていました。

 田蚡は劉邦が天下を統一した際に燕王に封じた臧荼の曾孫に当たります。臧荼は劉邦に背いて敗死しましたが、息子の臧衍は匈奴に逃げ込んだのでした。この臧衍の娘に臧児がいます。彼女は陳豨の乱の後で帰国を許されて漢に戻りました。

 臧児はまず王仲という男に嫁ぎ、女児2人と男児1(王信)人をもうけますが、王仲が亡くなったために田氏に嫁ぎます。そして、更に2人の男児(田蚡、田勝)を得ます。この長女は一度金王孫という男に嫁ぎ、娘を得ています。

 しかし、臧児は占いで、「2人の娘は高貴な身になるであろう」との結果を得ると、金王孫のところから娘を無理やり戻し、妹共々、時の皇太子の後宮に送りこんだのでした。この皇太子は順当に即位します。これが景帝で、臧児の娘は3人の娘と1人の男の子を生みます。この男児こそが武帝です。

 田蚡は武帝の叔父に当たるわけです。16歳の少年が太刀打ちできる相手ではありませんね。即位翌年、丞相の衛綰が辞職したため、竇嬰が丞相に、田蚡が太尉となります。両者とも外戚ですから、武帝に全く自由裁量が無いことは変わりません。

 竇嬰と田蚡は儒学を好んだため、儒者の趙綰を御史大夫に据えます。

 この頃、まだ儒教は中国の中核的な思想にはなっていませんでした。むしろ黄老思想の方が好まれていた程です。竇太后もまた、黄老思想を好んでいました。


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2019年08月23日

漢武帝 閩越出兵 呉楚7国の乱の首魁劉濞の息子は閩越に逃れ、閩越に東甌を囲ませたので、武帝は閩越討伐の軍を起こす 神仙への傾倒

 前138年、閩越が東甌(とうおう)という国を囲みます。東甌は楚漢戦争で功績のあった搖という人物が恵帝に封じられて成立した国です。呉楚7国の乱の際、東甌は反乱に与していましたが、呉王劉濞が敗北後にその首を斬って漢に献上したため許されていました。

 呉王劉濞の息子は閩越に逃れていたため、親の仇である東甌を攻撃させたのです。

 東甌の助けを求める使者が長安に至ると、田蚡は出兵に反対します。しかし、武帝は別の臣下の「そのようなことで、どうやって万国を子とすることができましょうか」との進言を嘉し、出兵を決意したのです。

 漢軍が援軍を差し向けたと聞くと、閩越は兵を引きました。

 3年後、閩越は今度は南越を攻撃します。漢は今回も南越の援軍要請を受けて軍を向けました。閩越王の弟の余善は兄を殺して撤退、南越は漢に感謝して人質を漢に送りました。

 なお、この頃には南越王趙佗は既に没しておりましたが、彼の没年は前137年ですから、漢と南越の武帝は同時代に共存していたことになります(漢の武帝は死後に付けられた諡号ですから、当時の人々は知る術も無かったことではありますが)。

 武帝の即位6年め、田蚡は丞相に上ります。権力にすり寄る人々は、こぞって田蚡詣でを繰り返します。竇太后を淵源とする強大な権力を当てにした人々は多額の賄賂を贈りますから、田蚡の財産は凄まじいものになりました。広大な土地を保有し、邸宅は豪勢を極めたものだったそうです。

 前135年に竇太后は亡くなります。

 武帝は雍で白帝、青帝、黒帝を祭り、その後は3年に1度祀ることにします。この時、武帝は神君なる、たいそう怪しげなものを求めます。読んでもよくわからないので『史記 本紀1』から引用しておきます。

神君は長陵の女子で、子供が死んだのを悲しんで自分も死に、その後霊魂が兄弟の妻の宛若に乗りうつって霊験をあらわした。宛若は神霊を自分の部屋に祠ったが、民人で参詣するものが多く、平原君(武帝の外祖母臧児)も訪ねてお参りをし、その後子孫が顕れ尊ばれた。



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2019年08月24日

漢武帝 武帝のオカルト趣味 声は聞こえても姿は見えない神君なるものを信じ、永遠の70歳を自称する怪しげな老人に騙される武帝

 神君は言葉は聞こえるが姿は見えないということで、何やら詐欺の匂いがぷんぷんするのですが、当時の人々の意識では不自然では無いのかもしれません。

 また、仙人になる術をもって見えた李少君なる方術士も重用します。この人物、いつも70歳であるなどと言っていたそうですが、たとえ仙人になろうとも、1年過ぎたら1歳年を取るのが道理だと思います。

 彼に騙されたのは武帝1人ではなく、多くの人が鬼神を操り不死の術を使うという謳い文句にころりと騙されて宝物を贈ったそうで、お蔭で彼は働かずに豊かな暮らしを送っていたそうです。

 宴会の際、座中の90歳ほどの老人に語りかけ、老人の父と弓を射たことを話したことがあります。その老人は父について狩りに行った場所を李少君が言い当てたことに驚いたそうですが、恐らくはコールドリーディングを使ったものか、事前に示し合わせたものでしょう。

 不老不死の術を学び、永遠の70歳(あまり羨ましく無い年齢ですが)を自称した李少君は、しばらくして病に冒され、そのまま病死してしまいました。不老不死は、所詮はまやかしだったのです。

 しかし、この頃には武帝が現代の言葉で表現するところの情弱であることが知れ渡ってしまいます。一度騙された者は、何度でも騙されますから、詐欺師にとっては格好のカモが現れた、ということです。こうして怪しげな方術士が武帝の周りに居座ることになりました。

 怪しげな話を延々と続けても仕方がないのでこのくらいにしておきますが、史記にはこの後も武帝がいろいろと騙された話が載っています。

 非科学的な術への傾倒は、武帝の晩年を闇いものにしていくのですが、今はその萌芽が若かりし頃に既に見えていたことを押さえておくことにしましょう。

 前134年、官吏の登用に関して後の世に大きな影響を与えることになる改革が行われます。郷挙里選と呼ばれるもので、地方の官吏や有力者が、その地方の優秀な人材を中央に推薦するというものです。


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2019年08月25日

漢武帝 郷挙里選 地方から中央へ優秀な人物が推薦されるようになる 秀才(後漢では劉秀の諱を避けて茂才と呼ばれる)には曹操や袁術、孫堅の名前も

 従来も地方から優秀な子弟が推薦されることはありました。文帝は前178年に勅令で賢良を求めています。郷挙里選がそれまでのものと異なるのは、郡守に対して孝者、廉者を毎年1人ずつ推薦するように義務付けたところでしょう。

 この推薦の科目を孝廉と呼びました。

 儒教を疎んじた竇太后が亡くなった翌年のことですから、ようやく武帝が自分の望む政治に着手することが可能になったということですね。もっとも、もう1人の実力者である田?が儒教擁護派だからこそ導入でいた政策かもしれませんが。

 郷挙里選で選ばれた者は秀才と呼ばれていましたが、後に後漢を立てる光武帝劉秀の諱を避け、後漢時代は茂才と呼ばれるようになります。この茂才に推薦された三国志の主要人物として、曹操や袁術、劉焉、荀ケ、司馬懿らがいます。これをみて明らかなように、のちの歴史に大きな影響を与えている改革ですね。

 この政策を推したのは春秋公羊学を学び、景帝の時代に博士になった董仲舒という人物です。この人物の良いところは清廉潔白で学問に打ち込んだところで、悪いところと言えば、打ち込んだ学問がちょっとどうかしているということ寛容性が無かったことくらいです。

 権力を持たせてはいけないタイプです。

 前漢までに、儒教は陰陽五行説と複雑怪奇な融合を遂げます。その結果、天と人の行いは互いに影響を与え合うという天人相関説が生まれ、更に天が地震などの災害や日蝕や彗星出現と言った異常な現象を起こして警告やら忠告やらを与えるといった、災異説が生まれます。

 呂后が権力闘争に興じている際、日蝕が起こったことに対して自分のせいであろうと言ったのは、こうした考えからですね。人間が単に時系列が前後するだけのことにも何らかの因果関係を見てしまうという悲しい性がよく現れた思想です。

 もっとも、董仲舒は災異説に基づいて高祖廟に起こった災異を解き明かそうとして用意した上奏文のせいで、前136年に危うく処刑されそうになったことがありますので、以後は災異説を語らなかったそうです。


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2019年08月26日

漢武帝 大水害1 匈奴との関係が悪化した前132、黄河が決壊する 黄河下流域の状況が被害を拡大させた

 何の話をしていたのかと言えば、郷挙里選でした。董仲舒の学問的な基盤からも容易に想像ができるとおり、孝廉は儒教的な素養を持つ者が選ばれました。更に、儒教を国教として、他の諸子百家を退けるように進言しました。武帝はこれを認めたため、以後は儒教を修めた者にしか栄達の道が開かれなくなっていきます。

 郷挙里選翌年の前133年、匈奴との関係を険悪化させるできごとが起こります。武帝は匈奴に和親を破らせておいて、侵攻してきた匈奴を打ち破ろうと考えました。

 武帝は馬邑に30万の軍を潜ませた上で、禁輸品を持ち出すように見せかけたのです。匈奴は獲物の存在を知って(もちろん、漢の側もさり気なく知らせていたのでしょう)国境付近までやってきましたが、草原に家畜はいても人の姿が見えないことから、罠を察知して引き上げました。

 匈奴の軍臣単于は当然これを不快に思い、先代の老上単于の時代に結ばれた和親を破り、漢に侵入を繰り返すことになります。

 こうして匈奴との全面戦争が始まったわけですが、翌年の前132年に濮陽付近で黄河が決壊して内政にも課題を抱えるます。

 黄河は黄土高原を流れるうちに、大量の土砂を含むようになります。それが川の流れが緩やかになる場所で沈降し、川底を上げてしまいます。川底が上がった状況で大雨が降れば、川は流れを変えていくわけです。

 しかし、川の流域に人間が住むようになると、すぐに決壊されては困るため、堤防を築いて川を固定しようとします。そのためには、黄土により底上げされるのと同等以上の速さで堤防も高くしていかなければなりません。これを繰り返すと、川底が周辺の土地よりも高くなる天井川になります。

 この天井川が決壊すると、周囲の土地は川底よりも低いのですから、もう川は元のルートに戻ろうとはしなくなります。

 加えて、黄河下流域は標高100メートル以下の平原が延々と広がっています。決壊すれば、川はどこに流れてもおかしくないのです。余談ながら、漢代の黄河は今よりも遥かに北を流れており、天津近くまで北上して海に注いでいました。それほど、どう動いても不思議ではないのです。


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