2018年03月03日

春秋戦国 春秋時代とは? 魯の年代記『春秋』と、それが絶対に正しいとした解釈学

 春秋時代の名前の元になったのは、周公旦が封じられた魯の年代記である『春秋』からです。陰公元年(前722年)から哀公14年(前481年)まで、12代約240年に及びものです。

 孔子が生まれたのはこの魯のため、孔子が書いたとされることもあるのですが、実際には複数の史官が書いたものです。ところが、孔子が書いたとされたこと、その孔子が神に等しい扱いを受けるようになったことから、後世からは怪しい扱いを受けるようになります。

 複数人が異なる時代に書いたものですから、当然のこととして戦争や有力者の死、名家の没落や天災といった出来事に対し、使う言葉や表現が異なることが生じます。ところが、孔子の名声はあるがままを受け入れることを許しませんでした。僅かな表現の違いは、孔子が熟慮を重ねて生み出したもので、非難やら賞賛やらといった本心が隠されているとされたのです。

 文字の獄を生み出した国なので、たしかに強い表現で批判したくともできずに一見穏やかな表現の中に批判を潜り込ませたこともゼロではないでしょう。あるいは、嫌いな人物故に非難の色が濃い文章が書かれたこともあったでしょう。しかし、あらゆる文章が孔子の微妙な心象の差を現しているとなると、到底受け入れることはできません。

 しかし、そう信じた人々も居て、怪しげな解釈を大量に生み出してきました。それを春秋の筆法だとか、微言大義と呼んでいます。陰謀論的に春秋を読むという、ややもすれば不毛な行為の結晶とも言える解説書も生まれています。左丘明の春秋左氏伝、公羊高の春秋公羊伝、 穀梁赤の春秋穀梁伝が有名です。

 こうした動きに対し、『教科書では読めない中国史―中国がよくわかる50の話 - 』は、「『春秋』という書の、歴史記録から、哲学、政治イデオロギーの書物への転身であった」 と喝破しています。特に左氏伝では左伝とも呼ばれ、三国時代の豪傑の1人である関羽が好んで読んだように、後世まで影響を与えました。

 書物の春秋とはそのようなものだとして、では春秋時代とはどのような時代だったのでしょうか。

教科書では読めない中国史―中国がよくわかる50の話 -
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2018年03月04日

春秋戦国 周の勢力が東へ去ったことで、西では戎と同じ民族である秦が勃興する 嬴姓の始まりについての神話

 少なからぬ本で、春秋時代について最初に書かれるのは斉の桓公です。周の東遷から斉の桓公まで、史記によれば平王が51年で、桓王が23年で、荘王が15年で死に、その次の釐(き)王3年に桓公が覇者となったとあります。東遷から90年ほども経つのに、どうしていきなり斉の桓公なのかというと、目玉になる記事がないからです。

 実際、史記を呼んでも紹介したいエピソードがあまり無いのですが、ここでは権力の空白地となった鍋京に西方から秦が食指を伸ばし、前754年には周との国境を定めていることを紹介しておきましょう。

 秦は殷の流れとも周の流れとも異なる、西戎そのものか、または極めて密接な関係にある人々の集団です。甘粛省南部の馬家源遺跡には見事な馬車と共に、切断されたウシの首が埋められているのが発見されていますが、これは西戎の風習です。では西戎の人の墓なのかと言うと、秦で見られる数センチ大の金の動物が発見されていることから、そうも言えないのです。秦=西戎と考えるのが筋なのです。

 彼らは蔑視された異民族という出自を隠すためか、はたまた周側の意向があったためか、神話に結び付けられます。すなわち、禹の治水事業に功績を上げた伯益が「嬴」姓を授けられ、後の秦王家の祖先となったというのです。

 西方だけではなく、東方にも異民族は少なくありませんでした。殷系、周系の国々が「諸夏」、「諸華」という括りで同盟を結び、異民族と戦うところが見られます。そのような合従連衡の中で、士大夫層に一体感が醸成されていきます。

 東方には殷代から国名の見える斉が、北方には召公奭の燕が、そして中原に西周討伐に功を為した晋が封じられていましたね。南方にはもともと殷や周の権威の外にあった都市国家群がある状態です。

 各国は、それぞれの国で王位を兄弟継承にしたり親子継承にしたりしながら力を付けていきました。当然、それには弱い国が滅ぼされるという、弱肉強食を伴っていたことは既に書いた通りです。力を付けた国は都市国家から領土国家へと転換していきます。ただ、まだどの国も周の主導権という幻を捨て去ることはしませんでした。それは、他国が周を奉じて介入してきた時に、防げないかもしれないから、です。曹操が無力になった献帝を支え続けたのも同じ理由ですね。献帝擁立が曹操に有利に働いたことを見れば、この段階で敢えて周と袂を分かつ必要は感じられません。


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2018年03月05日

春秋戦国 斉の桓公1 暴君・襄公の即位 魯の桓公殺害の顛末と、兄弟の公子糾と公子小白の国外出奔

 国力を上げた勢力は、膨張する経済に押されてか、自国内で通貨を流通させる様になっていきます。周や晋などで布銭が、斉などで刀銭が使われるようになります。面白いのは、文化的にも民族的にも周とは出自の異なる楚で、コヤスガイを象った銅貝貨が使われたことです。『貨幣の中国古代史 (朝日選書) - 』は、「もともと南海方面からの子安貝の流入ルート上にあったので、その伝統は濃厚に残存していたものとみられ、そのため、むしろ貝貨使用が活発であった西周関中地域の伝統が継続することになったのであろう」と指摘しています。

 こうした中でまず目立った強大化を遂げたのが、東方の斉です。

 名君が続いて強国になったわけではありません。むしろ、主君にするのは御免こうむるような人物が、その厚かましさによって国力を上げた感じがします。

 桓公が即位する前、斉はお家騒動に揺れています。桓公の父にあたる釐公からから話を始めましょう。

 釐公は甥の公孫無知を可愛がり、太子である諸児(しょげい)と同格の待遇を与えました。その釐公が死んで諸児が襄公として即位すると、彼にとって従兄弟の公孫無知は重要な存在ではないどころか、自分と同格の扱いを受けていたライバルですから、その地位を下げます。

 面白くないのは公孫無知です。彼は反乱の機会を狙っていました。

 襄公というのは少々タガの外れた人物だったようです。彼には妹がいて、魯の桓公に嫁いでいました。襄公と妹は、妹が国を出る前から男女の関係にあったと伝えられます。チェーザレ・ボルジアとその妹ルクレツィア・ボルジアのようなものでしょうか。

 少々異常なのは、妹が嫁いだ後にも機会があれば関係を続けたことでしょう。魯の桓公が妻を連れて斉を訪ねた際、襄公と妹は関係を持ちました。それを知った魯の桓公が妻を怒ると、襄公は酒宴の席で桓公を殺させてしまいました。

 こうした行動に見られるように、襄公は少々常軌を逸したところがありました。不興を買おうものなら親族ですら何をされるか分かったものではありません。襄公のすぐ下の弟の公子糾は母の生国である魯へ、異母弟の公子小白は莒へ出奔しました。

貨幣の中国古代史 (朝日選書) -
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2018年03月06日

春秋戦国 斉の桓公2 襄公殺害を受け、公子糾と公子小白が斉都臨淄を目指す 管仲、小白を射る

 襄公が慈愛に満ちた君主であれば、公孫無知の反感を買っても問題など無かったことでしょう。しかし、襄公は外地へ送り出した兵に、約束の期日が過ぎても帰国を許さないといったことを行い、軍の怒りも買ったのです。味方を逐い敵を増やすばかりの襄公は、隙を見せればいつ何が起こっても不思議ではない状態だったと言えるでしょう。

 ある日、襄公は狩りに出かけ、車から落ちて足を怪我します。襄公は帰国後に靴係を300回も鞭打ったそうです。

 襄公が負傷したことを知った公孫無知らは宮中に兵を進めます。鞭打たれた靴係は襄公を隠すと、自らは公孫無知らと戦って死にました。彼の忠義も虚しく、襄公は発見され、殺害されます。

 公孫無知が襄公に抱いたのは義憤などではなく、特別待遇を取り上げたという私怨です。暴君に対するに私情しか持たないような人物が主君に相応しいかというと、答えは否なのではないかと思います。そして、彼は実際に君主に相応しい人物ではなかったようで、恨みを抱く人物に暗殺されてしまいます。

 暗殺者は位を奪うことはなく、公子の中から相応しい者を国君に選んで欲しい、と告げます。

 斉の有力者である高氏と国氏は小白へ連絡を取り、帰国を促しました。一方、一連の事件を知った魯は公子糾の教育係である管仲に兵を授けて公子小白の帰り道を塞がせ、糾を先に斉へ送り込もうとします。

 小白の一行が斉に向かうその先に、管仲率いる軍が現れました。そして、管仲の放った矢が小白の腹部に命中、小白はもんどり打って倒れます。

 管仲は糾に小白は死んだと伝えます。ライバルが消えた公子糾はゆっくりと斉都臨淄を目指しました。一方、小白の一行は主の棺桶を温車(霊柩車)に乗せ、臨淄へ急行します。そして宮廷へ棺を置くと、中からは元気な小白が姿を表しました。管仲の射た矢は小白のベルトの留め金に当たったため、彼は九死に一生を得ていたのです。

 こうして小白が斉君となりました。彼は死後に桓公の諡を与えられますが、ここでは生前のうちに桓公と呼ぶのはおかしいことを理解しつつ、以後の小白を斉の桓公と呼ぶことにします。



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2018年03月07日

春秋戦国 斉の桓公3 桓公の即位と管仲の登用 衣食足りて礼節を知るを基本に据えた管仲の政策

 魯にとっては、自分たちの息の掛かった公子糾を斉君に据えることができなければ、斉への影響力が大きく減退します。即位したばかりの桓公を追うべく、魯は進軍を続けました。桓公は斉の人士を率いて迎撃します。骨肉相食む戦いは、斉の勝利に終わりました。

 斉軍は魯軍を包囲します。そして、桓公は自らの手で兄弟を殺めるのは忍びないからと魯に公子糾の殺害と、管仲は処罰するために引き渡すよう要求しました。

 魯では管仲を求めるのは登用するためであるとして、管仲も殺害して死体を送り返すことを主張する向きもありましたが、結局、公子糾は殺され、管仲は捕虜として斉へ返されました。

 桓公は管仲を殺すつもりでしたが、教育係だった鮑叔牙が「天下に覇を唱えることを望むなら管仲の力が必要です」と口説いたこともあり、登用を決めていました。

 管仲が取り立てられると、鮑叔はその下の立場となりましたが、決して文句を言うことはありませんでした。2人は篤い友情で結ばれていいたとして、管仲が語った言葉なるものが史記に収められています。

 それによると、管仲が貧しかった頃、2人で商売をしてより貧しくなったり、仕官先から追放されたり、戦いから逃げ出しても鮑叔はそれぞれ事情があることを理解して自分を嘲ることはしなかった、とした上で、自分を産んでくれたのは父母だが、理解してくれたのは鮑叔である、と結んでいます。

 管仲は士大夫階級で、鮑叔に至っては代々続く名門の家に生まれたというのに、貧しく一緒に商売をしたとは歴史的事実だったと信じるには難しく、後世に怪しげなエピソードが紛れ込んだものと見たほうが良さそうな、随分と怪しげな話です。

 先のセリフが偽りであったとしても、管仲が有能だったことは間違いがないでしょう。倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る、というのが政治に当たっての要点でした。日本では、衣食足りて礼節を知るとして知られる言葉の起源ですね。確かに、冷蔵庫が空っぽでは礼節など構っていられませんし、衣服にも事欠くようでは地位や名誉など意識に上らないでしょう。


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