2017年07月17日

ローマ3 ネルウァ ドミティアヌス暗殺団、老いた元老院議員ネルウァを皇帝に選出

 随分と寄り道をしてしまいました。ローマ史という点では、フラウィウス朝3代目の皇帝ドミティアヌスが暗殺されたところまで辿り着いていますので、その続きと行きましょう。

 ドミティアヌス暗殺のまさにその当日、病弱で老齢の元老院議員、ネルウァが即位します。ネルウァは共和制時代から続く名門中の名門出身に生まれました。祖父はティベリウスの隠遁に同行した教養人です。

 ネルウァ本人も順調に出世を重ねていました。65年のネロ暗殺の陰謀が発覚した際には、かの佞臣ティゲリヌスと共に取り締まりに当たり、ネロの信任を得たようです。フラウィウス朝でも重用され、ウェスパシアヌス、ドミティアヌスの同僚執政官を務めています。ただ、属州総督や軍の指揮官には就いていませんでした。

 暗殺の首謀者たちがネルウァを担ぎ出したのは、彼が自分たちのような既得権益を握る存在と利害を同じくする名門出身であったこと、老人なので突飛な行動を取らないであろうことがあったのでしょう。緊急リリーフにはもってこいの人材だったのではないでしょうか。

 ネルウァは早速、元老院議員を処刑しないと誓い、自分の出身母体に迎合する姿勢を見せます。ドミティアヌス時代は元老院議員であっても不興を買えば処刑される恐れのあったわけですから、元老院は歓迎します。

 しかし、この人事は兵士には不満でした。高年齢が嫌われたのもあるでしょうし、ネルウァには軍指揮官の経験が無かったことも不人気の理由の1つでしょう。翌97年の夏、カスペリウスが親衛隊長官となると、兵士を扇動してネルウァに対しドミティアヌス暗殺に携わった者たちの処刑を要求します。ネルウァは従わないわけにはいきませんでした。侍従パルテニウスと親衛隊長官ペトロニウス(カスペリウスの同僚)は兵士に引き渡され、処刑されました。

 足下の親衛隊が皇帝の首をすげ替えるというのは、あの不安定な4皇帝の年を彷彿とさせますね。ガルバがまさに親衛隊に見捨てられて滅んだような事態を。

 ガルバ同様に、ネルウァには実子がませんでした。そこで、軍にも睨みを効かせることができる人物を養子に迎えます。それこそが、ゲルマニア属州総督のトラヤヌスでした。


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2017年07月18日

ローマ3 トラヤヌス1 ネルウァが望んだ後継者は別人だった?歴史から消されたシリア総督ニグリヌス

 ただ、トラヤヌスは唯一の選択肢だったわけでは無さそうです。『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』には、スペイン出身のニグリヌスなる人物も実は候補の1人だったのではないかと指摘しています。

 ニグリヌスは本名をマルクス・コルネリウス・ニグリヌス・クリアティウス・マテルヌスと言う、騎士身分出身の人物です。ウェスパシアヌスによって元老院議員に引き上げられると、頭角を現して軍団司令官、属州総督を歴任します。ゲルマニアとの間で緊張の高まっていたモエシア総督を務め、ドミティアヌスが暗殺された頃は多くの軍を擁する属州シリア総督でした。

 同書ではかつてドミティアヌスに降格されたことのあるカスペリウスがあたかも親ドミティアヌスであるかのように振る舞い、ネルウァに対して反抗的だったのは、彼がニグリヌスと結んでいたからではないかとの推測がされています。

 ニグリヌスは属州シリア総督を務める程の人物でありながら、文献に現れないために長い間知られていませんでした。スペインから出土した碑文の断片によって彼の名が明らかになったのは1973年のことです。恐らくニグリヌスは、小プリニウスの著作に見える「重大で危険な噂」の主で、この記述を最後に姿を見せなくなります。失脚したのか、殺害されたのか、それは定かではありません。

 ただ、トラヤヌスが養子に指名されるに当たっては熾烈な争いがあったことは文献から示唆されます。『ローマ五賢帝』は、『皇帝史要約』とでも訳せるラテン語の史書からの引用として、以下の文章を紹介しています。

 スラの熱心な努力のおかげで、彼(トラヤヌス)は帝権を手に入れることができたのであるが、そのスラの名誉のために、彼は浴場を建てた。


 尚、「手に入れる」と訳した部分に使われているラテン語はarripereという動詞で、これは「推薦する」などという穏やかなものではなく、「皇帝権をとる」あるいは「簒奪する」というかなり激しい意味であるとの由なので、スラの活動はえげつないものだったのでしょう。

 ルキウス・リキニウス・スラはスペイン出身の元老院議員で、トラヤヌス即位後は3度の執政官を経験、死を迎えると国葬で送られています。

ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像 (講談社学術文庫) -
ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像 (講談社学術文庫) -


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2017年07月19日

ローマ3 ネルウァ3 「人類が最も幸福だった時代」5賢帝時代を拓いたネルウァ、功績は後継者をトラヤヌスにしたこと

 必ずしもトラヤヌスが元老院からも軍からも支持される唯一の人物だから後継者と定められたというわけでは無いのです。ただ、ネルウァは強力な軍を率いるトラヤヌスを養子に迎えることで安定を手に入れたのは間違いありません。有能な人物を後継者にすべしというデリケートな理由では無く、恐らくはトラヤヌスが指揮する強力な軍の力を利用するために後継者に定めたとしても、ネルウァの後継者選択は正しかったと言えるでしょう。

 ネルウァから5人の皇帝が支配した時代、ローマは繁栄と安定を手に入れています。マキャベリはこれを高く評価し、5賢帝と呼びました。更に後、『ローマ帝国衰亡史』を著したエドワード・ギボンが5賢帝時代を「人類が最も幸福だった時代」と評しています。勿論、ギボンが当時のローマの奴隷として生を受けたのなら全く違う感想を述べたことでしょうが。

 そのネルウァですが、治世が16ヶ月と短かったため、特に何かを成し遂げたとは言えません。皮肉と諧謔で知られるアンサイクロペディアの記述を借りると、ドミティアヌスが殺されたために急遽お鉢が回ってきたご老人。「ネルウァの業績はトラヤヌスを後継者と決めたこと」と言われた人物。何をしたかというとそれをしたという、まさにそれだけの感じがしてしまいます。5賢帝に入れるのは少々持ち上げすぎのような気がするのは事実ですね。

 98年、即位時に既に老いていたネルウァが在位16ヶ月で死に、トラヤヌスが即位します。属州出身者として初めての登位でした。

 その時、トラヤヌスはダキアへの防衛体制を整えるため、ゲルマニアに赴任していました。皇帝になったからと言って直ちにローマに戻ることはなく、仕事をやり遂げたことを見届け、軍の支持を固めるために各地を1年半かけて巡った後、翌99年にローマへと帰還しました。

 と言ってもトラヤヌスの責任感の強さだけを見るのは間違いでしょう。新興の家庭に生まれ、ローマに基盤を持たないトラヤヌスのことですから、遠隔地からローマを掌握できると確認できるまでは戻りたくなかったのかも知れません。4皇帝の年に終止符を打ったウェスパシアヌスも、自身は暫くエジプトに留まってローマ情勢と息子ティトゥスが攻撃を続けるユダヤ戦争の行く末を確認していましたね。

ローマ帝国衰亡史 全10巻セット (ちくま学芸文庫) -
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2017年07月20日

ローマ3 トラヤヌス1 徒歩でローマ入りし、民衆の大喝采を浴びたトラヤヌスの無難な船出

 カスペリウスが処刑されたのはこの頃です。時期を考えると、あるいは腹心スラが反トラヤヌスとなりそうな者の排除に動いていたとも考えたくなります。

 ゲルマニアから帰還したトラヤヌスは、城門前でウマから降りて徒歩でローマに入り、市民の喝采を浴びます。以後もトラヤヌスは徒歩を好み、市内であれば歩いて移動しました。

 スティングはEnglishman In New Yorkでイギリス男がニューヨークで暮らすと浮いてしまうと嘆く中でいつも杖を持って歩くことを挙げていますが、皇帝が徒歩で市内を巡ることと比べたらなんともないでしょう。



 トラヤヌスには名君と謳われる者が持つ多くの特性があります。即位早々にネルウァと同様、元老院議員を殺さないとの誓いを行って人々を安堵させたのもそうですし、匿名の告発を嫌ったのもそうです。少なからぬ独裁者が独裁という不安定な大勢を維持するために秘密警察に頼ってきたのとは大違いです。北の将軍様にも是非見習って欲しいものですが、器量が違いすぎますね。

 その一方で属州総督の腐敗にはきちんと対処しました。彼のバランス感覚が優れているのは、不正に対する財産没収の対象を赴任期間のみとし、それ以前の財産には手を出さなかったことに見られます。また、罪を本人に限定して家族の罪は問わないという近代法と同じことも定めています。

 帝国内の出身地を問わず、有能な人物を登用したことも、公平で器量のある君主であるという同じ文脈で語って良いことでしょう。お友達ばかりを優遇するようなことではリーダーとしての資質に欠けていると言われても仕方がないでしょうからね。

 インフラ整備にも熱心に取り組みます。道路網を整備し、貧民救済として必需品を支給したり子供の養育基金を作ったりと、「パンとサーカス」に留まらない施策を次々に繰り出します。


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2017年07月21日

ローマ3 トラヤヌス2 完璧超人トラヤヌスの内政事業と、身の程知らずのダキア討伐

 育英基金は男女や生まれの違いによって支給額は異なりますが、月ごとに嫡出男子16、女子12、庶出男子12、女子10セステルティウスが支給されました。庶出の女子にまで資金を与えるのは画期的です。ただし、国家がそのために税金を集めたわけでも、教育の場や機会を提供した訳でもありません。各地の有力者たちに、育英のためにカネを使うべきであるという意志を伝達したのです。ローマでは富裕層が公共設備や娯楽費用を供出することがノブリス・オブリージュとしてありました。皇帝の意志を知った統治者たちは富裕層に働きかけて資金を供出してもらい、極力多くの子供にカネが行き渡るよう、努力するようになったのです。

 足元のイタリアでの仕事の確保に元老院の資金投資はイタリアへ1/3以上行うことも定めました。

 これらの施策は少子化対策に役立っています。

 教育にカネをかけ、設備投資は国内優先を命じることが少子化対策というのは現代でも学ぶ点が多いでしょう。こう言っては怒られるかもしれませんが、教育には資金投入を渋り、老人向けの支出ばかりを増やしては、少子化が更に進んでジリ貧になるばかりでしょう。

 多岐に渡る分野の改革を行うにはそれこそ寸暇を惜しんで働かなければなりません。実際、トラヤヌスは過労気味に働いたようです。その精勤ぶりは執政官も務めた小プリニウスとの手紙のやり取り(『プリニウス書簡集―ローマ帝国一貴紳の生活と信条』)に明らかです。属州総督として赴任した小プリニウスに対し、丁寧な返信を書いているのですから、苦労が偲ばれます。

 おまけに、トラヤヌスは軍事的な才能も豊かでした。それを示す機会が程なくしてやってきます。

 ドミティアヌスの時代に保護国となっていたダキアが再び勢力を伸ばし、ローマと敵対するようになっていたのです。

 101年、ダキアが和平条約違反を犯したと見るや、トラヤヌスはダキア遠征に向かいます。ドナウ川中流から下流域を担当する7個軍団に、ライン川から2軍団を移し、更に新規編成の2軍団を加え、正規軍だけで8万、補助軍を入れれば15万にも及ぶ大軍準備します。一朝事あれば直ちに敵を叩き潰せるよう、配慮を欠かさなかったのです。

プリニウス書簡集―ローマ帝国一貴紳の生活と信条 (講談社学術文庫) -
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