2016年08月25日

ローマ2 栄光の年、前146年1 マケドニアに加えてギリシアも離反するが、まずマケドニアが滅ぼされる

 第3次ポエニ戦争でカルタゴが消滅した前146年は、ローマにとって栄光の年でした。同年、東方でも支配地域を広げることに成功したのです。

 第3次マケドニア戦争でマケドニア復興を企図したペルセウスが捕らえられ、アンティゴノス朝マケドニアが滅亡したことは既に述べた通りです。マケドニアの故地は4つの自治区に分割されました。ペルセウスはローマを引き回された後に投獄されましたが、ローマの将軍の働きかけもあり、後には釈放されています。

 前149年、このペルセウスの子供のフィリッポス6世なる人物がマケドニア人を糾合して反乱を起こします。私の書き方から伝わる通り、詐称にすぎません。その正体はアンドリスコスという、アナトリアの織物業者です。

 アンドリコスはセレウコス朝シリアの後援も受けてローマに反旗を翻します。こうしてローマとの間で第4次マケドニア戦争が行われます。

 反乱の序盤ではローマ相手に勝利を得たこともあったアンドリコスでしたが、戦闘経験豊富なローマに敗れ、逃走します。ところが、懲りない彼は翌前148年にトラキア人の軍勢を率いて再びローマと戦い、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスにピュドナの戦いで敗れてトラキアへ逃げ出します。

 トラキアが2度もローマに敗れたアンドリウスに肩入れしなければならない理由はありません。トラキアの王子はアンドリウスを捕らえ、ローマに差し出しました。その2年後の前146年、ローマはマケドニアを属州に編入し、独立を奪いました。

 マケドニアが属州に組み入れられたことが意味するのは、ローマがギリシアを特別扱いしないことの意思表示です。しかし、ギリシアはそれを理解していませんでした。前196年、執政官のフラミニヌスがギリシア諸ポリスに自由を約したことを、ギリシア人はローマの弱腰と捉えたこともあります。


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2016年08月26日

ローマ2 栄光の年、前146年2 ローマ、ギリシアを叩きのめし、コリントスは破壊される

 前146年、アカイア同盟の参加者であるスパルタと他の同盟の対立が先鋭化すると、両者は共にローマへ使者を送ってそれぞれの言い分を認めてもらおうと競います。ローマは言質を与えるようなことはしませんでしたが、ギリシア側はローマの態度を力無きものの態度と見たのかもしれません。

 ペロポネソス半島とギリシアを繋ぐコリントス――ペルシア戦争の際にペロポネソス半島の人々はここでペルシア軍を防ごうとした――を訪れたローマの使者に、ギリシア側は非礼な態度を取ります。これが、ローマ介入の口実となります。

 平民出身のルキウス・ムンミウスは歩兵23,000、騎兵3,500からなる2個軍団と同盟国の軍を率いてギリシアへ侵攻します。アカイア同盟側は15,000の兵力で迎え撃ち、夜襲で緒戦に勝利します。しかし、多勢に無勢、翌日にはローマは反撃に転じ、アカイア同盟軍の側面に回り込んでこれを攻撃して打ち破ります。

 コリントスの戦いで勝利したローマはコリントスを徹底的に略奪した後に破壊します。このコリントスは高級娼婦と芸術品で知られたポリスでした。芸術品は略奪されてローマに運ばれましたが、人間の方はそんなに運の良い未来をもちませんでした。多くの男は殺され、女子供は奴隷とされたのです。ムンミウスはこの勝利によってアカイクスの尊称を得ました。一将功成りて万骨枯るの1つの姿です。

 ギリシアは以後独立を失い、ローマに飲み込まれていきます。

 第3次ポエニ戦争でカルタゴが燃え落ちるところをスキピオ・アエミリアヌスと共に眺めた歴史家ポリュビオスは、前150年に解放されてギリシアへ帰還していました。皮肉なことに、彼はカルタゴの滅亡を攻撃側で、アカイア同盟の崩壊を防御側で眺めたことになります。彼の『歴史』は、前146年のアカイア同盟滅亡までを記したものでしたが、残念なことにポエニ戦争を書いた一部以外は散逸しています。



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2016年08月27日

ローマ2 ローマ拡大の裏にある、戦争での勝利を希求する心

 それにしても、ローマの歴史は戦争の歴史と言って良いほど戦争が続きますね。その背景に、ローマでは政治的に大成するためには軍事的な成功を収めることを要求されたことがあります。

 執政官を見ると、それがあたかも世襲制ででもあるかのように、名門の家系からは何人もの執政官を出しています。スキピオ家もそうした名家の1つです。

 実際には、30歳くらいで財務官に任命されると、そこから功績を上げて出世の階段を上っていかなければなりませんでした。しかも、それには選挙で勝利することが必須なのです。誰から見ても優れた素質があると示すのに、軍事的な勝利を得ることは最も適した手段でした。勝利は民衆の支持を確実なものにしますから。だからこそローマは戦い続けなければならなかったのです。

 太平洋戦争の端緒となった中国北東部の状況について、関東軍の暴走が指摘されることがあります。彼らはしばしば軍中央の制止を聞かず、戦いを拡大させるようにしていました。南京事件(中国側が南京大虐殺と主張する事件)を生んだ南京占領も、もともとは上海への派遣軍が政府の意向を無視して南京へ進んでいます。

 軍人にとって、勝利は出世の道を切り開くものです。しかも、目の前の中国軍は武装レベルも練度も遥かに日本軍より低く、おまけに士気も低いので、戦えば勝てます。しかも、勝利が続く間は新聞も興奮気味に勝者を讃え、国民も熱狂的に支持したのです。マスメディアは国民の知的レベルから決して乖離したレベルになりません。ですから、当時はマスコミも戦争を煽っていました。マスメディアも顧客の支持なしには存続しえませんから、それはそれで仕方のない事です。ただ、それはそれとして、国民の知的レベルを上げる活動をもっとやっても良いと思いますけどね。



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ラベル:ローマ スキピオ
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2016年08月28日

ローマ2 勝利を重ねたことでローマには奴隷が溢れかえる

 戦って勝てば立身出世が約束された人々に力を握らせるのは危険というべきか、こうした体制が危険というべきかを考えますと、やはり後者がよりいけないのでしょう。現在の世界では、侵略戦争は即ち悪であるという価値観が支配しています。イラク戦争のように、例え戦争に勝利しても、正しい戦争だったのかどうかで議論が続きます。

 現代(の先進国)に生まれたことは幸いだと思います。

 例え日本が9条を破棄して自衛隊を軍と認めたとして(私は法治主義の立場から、認めるべきだと思います)、更には無理のある徴兵制が復活したとして(軍備の高機能・高性能化が進んだため、知識や技能に欠ける兵士を大量に集める徴兵制のメリットはほとんどありません)、それでも日本が他国を侵略するようにはならないと期待されます。それは、上述の通り、侵略戦争は国際法で禁じられているからです。

 ローマのように膨張主義が出世の最大の足がかりという社会は、歴史を眺める分には楽しいかもしれませんが、そこに住みたいとは思えません。

 もう1つの理由は、奴隷の必要性です。戦いに負けて占領された町では、身代金を払える者は解放されましたが、のこりは奴隷として売られました。カルタゴでは5万人が、第3次マケドニア戦争の際にマケドニアに与したエペイロスでは15万人が奴隷とされたように、大勝利は奴隷を大量供給するのです。

 需要と供給の関係は奴隷にも当てはまります。大勝利の後には安価な奴隷が溢れるのです。奴隷制度を維持し続けるには、戦いに勝ち続けて奴隷を確保し続けなければならないという側面もありました。

 奴隷が不足して価格が上がると、奴隷商人の利益が高くなりますから、彼らは属州で自由人を攫ってきては奴隷として売り飛ばす、といった非道なこともやっていました。借金を返すために奴隷身分に落ちる自由民も(非合法ながら)実際にあったそうです。奴隷の供給源としては、他に捨てられた子どもがあります。親が育てないと決めた子どもは捨てられ、拾った者はその子どもを好きにできたのです。非人道的にも思えますが、食い扶持を減らすために子どもが殺されることも世界では珍しいことではなかったので、それよりはマシでしょう。


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ラベル:ローマ
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2016年08月29日

ローマ2 奴隷の扱い 主人に気に入られれば解放されることもあったローマの奴隷制度

 衣服や食事は主人の一存に委ねられていましたし、虐待を止めるような法律など存在しませんでしたから虐待もありふれていました。大カトーの例に見られるように、女性の奴隷は性的な奉仕を強いられることもあります。男性の奴隷も件数は少なくともあったと伝えられます。女性の主人に同衾を強いられたそうです。

 もっとも、こうした関係を性的な搾取-被搾取の関係とだけ捉えるのもまた間違いでしょう。主人に気に入られた奴隷には解放奴隷への道もありましたし、子どもが生まれれば財産を相続できる場合もありました。ですから、複数の女性の奴隷の間では主人の寵愛を巡っての争いがあったそうです。

 都市部では、まだ主人と顔を合せることで人間対人間の関係がありましたから、運が良ければ解放される道もありました。しかし、大量の奴隷を駆使する大規模農場(ラティフンディア)では収率だけを指標にして厳しく奴隷を働かせたので不満が高まります。

 当然、支配する側は支配される者達の反抗を恐れます。ムチや地下牢への監禁といった罰が与えられたり、奴隷の中からリーダーを選んで指揮を取らせることでリーダーに不満を集める、といった手法が取られていたそうです。

 運良く解放され、自由民になっても、暮らしは大変でした。元奴隷の哲学者エピクテトスは、奴隷は自由になることを願うが、自由民は所詮大勢に奉仕する奴隷にすぎないと喝破しています。温情的な主人からは解放されたくない奴隷がいたことも、不思議な事ではありません。

 アメリカで黒人奴隷を廃止する際にも同じ議論が見られた(奴隷のほうが幸せなのだといもの)のですが、勿論、これは今日の世界では奴隷を正当化する理論たり得ません。

 尚、解放の方法によって、解放奴隷には複数の身分がありました。政務官の前で正式に解放された者は自由市民となりましたが、友人の前で誓うような略式の場合にはユニウス・ラテン人と呼ばれる低い身分に留まったそうです。後者は遺産を子孫に残すことができないという制限があったそうです。


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ラベル:大カトー ローマ
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