2016年03月08日

ヘレニズム期 アレクサンドロス3世の死と帝国の行方

 アレクサンドロス3世が帝国を託す相手に指名したのは、「最強の者」でしたね。そこで、彼の部将の間で誰が最強なのかを巡り、争いが起こります。

 まず、バビロンでペルディッカス主催の会議が開かれます。会議を取り仕切ったところから見られるように、アレクサンドロス3世から指輪を受け継いだペルディッカスは後継者の最右翼でした。

 とはいえ、いきなり自分がトップに立つなどと宣言できるものではありません。権力を掌握するまで、多くの人が納得する傀儡が必要とされます。この時点で、アレクサンドロス3世の血縁者から王を選ぼうとすると、異母兄で知的障害を抱えるアリダイオス、バルシネの生んだヘラクレス、そしてもしロクサネの胎内に宿る子が男児であればその子と、3人に絞られます。

 ネアルコスはヘラクレスを推しますが、庶子だったことから賛同者は出ませんでした。結局、異母兄アリダイオスが担ぎだされ、フィリッポス3世として即位しました。

 そして、もしロクサネが男児を産めば、その子はフィリッポス3世の共同統治者となることが定められます。果たして6ヶ月後にロクサネは男児を産み、生まれたばかりの男の子はアレクサンドロス4世として巨大な帝国の王に祭り上げられることになります。後の歴史を知る立場から言えば、男児であったことは本当に不運だったと思います。

 会議においてエジプト、シリア等の統治を分担することが決定されます。ペルディッカスは宰相として権力を握ります。プトレマイオスはエジプトに、アンティゴノスは小アジアに、リュシマコスはトラキアに領地を与えられ、アンティパトロスはこれまで通りマケドニアからギリシアにかけての地域を支配します。

 意外なのは、書記官だったエウメネスがカッパドキアを与えられていることでしょう。ヘファイスティオンの死後、ペルディッカスがヘタイロイ指揮官という最精鋭部隊のトップの座を継ぎ、それに伴って空位となった騎兵隊指揮官にエウメネスが任じられています。僅かにペルディッカスとともに異民族鎮圧を指揮した記録も有るようですが、他の部将から軽んじられている記録がありますので、軍功は質的にも量的にも他の部将から見れば物足りないレベルだったことは間違いありません。

 カッパドキアはアレクサンドロス3世の死の時点では帝国に組み込まれていませんでした。そこでエウメネスはかつての僚友に支援を求めますが、アンティゴノスは拒絶、レオンナトスもまた後に見るラミア戦争への出兵を理由に拒否します。エウメネスはペルディッカスの協力を得てカッパドキアを支配します。エウメネスはこの恩もあり、ペルディッカス派となっていきます。

 尚、エウメネスはカルディア出身で、同名のエウメネス(例えば後のペルガモン王国のエウメネス)と区別するため「カルディアのエウメネス」と呼ばれます。


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2016年03月09日

ヘレニズム期 ディアドコイ戦争1 争いはアレクサンドロス3世の葬儀を巡って顕在化

 領土は分割されましたが、かつての大帝国を知る部将たちは領土的野心に燃え、角逐を繰り広げます。彼らは皆、アレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)を名乗っていたため、一連の戦争をディアドコイ戦争と称します。

 ディアドコイ達が早くから主導権を巡って争っていたことは、アレクサンドロス3世の葬儀を巡る争いからも分かります。ペルディッカスはアレクサンドロス3世の遺体をマケドニアへ運び、葬儀を執り行なおうとします。ところが、その遺体をプトレマイオスが横取りし、エジプトへ運んでしまうのです。当時のマケドニアでは、前王の葬儀は次の王が執り行う風習でしたから、プトレマイオスはアレクサンドロス3世の葬儀を自分が行うことで自分こそが後継者であると示そうとしたわけですね。

 アレクサンドロス3世本人は、生前にエジプトのシワに葬られることを望むような発言をしていますので、エジプトは方向的には合っています。しかし、アレクサンドロス3世はまずメンフィスに葬られ、続いてアレクサンドリアへ移されます。更に、プトレマイオス4世はアレクサンドロス3世の墓の周りに自分の先祖の墓を集めました。アレクサンドロス3世が自らの名を冠した最も有名で文明にも大きな影響を与えた地に葬られたことは巡り合わせの面白さを感じさせてはくれます。

 アレクサンドロス3世の遺体の扱いについて、ここまでは史料がはっきり物語ってくれているのですが、墓がどこにあるのかは未だに分かっていません。アレクサンドリアは戦乱に巻き込まれたり地震に襲われたり地盤の沈降で移籍が水没したりと、過去の面持ちをすっかり失ってしまったからです。

 多くの人がアレクサンドロス3世の墓を探してきました。ステリオス・クームーツォスなる人物が発掘の許可を申請し、結果を報告した公式記録は、作業を開始した1956年以降、322件を下らないと『蘇るアレクサンドリア』で紹介されている通り、歴史家、歴史マニアから誇大妄想に囚われた一般人、更には一攫千金を夢見る山師と、目的も能力も様々な人々が、文献や伝承や直感に基いて探し求め、そして失敗してきたのです。シュリーマンのように、伝説を歴史に変える人物の登場が待たれているのかもしれません。

 この辺りでアレクサンドロス3世死後の状況に戻りましょう。

 まずはギリシア情勢を見てみます。

 アンティパトロスは財政権を握り、引き続きマケドニアを支配します。


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2016年03月10日

ヘレニズム期 ディアドコイ戦争2 ギリシアにおける反マケドニア闘争の行方、レオンナトスの死

 前323年のアレクサンドロス3世急死後、ギリシアでは反マケドニアの機運が高まります。アテナイでも反マケドニアの闘士で弁論家のデモステネスが亡命先からアテナイに戻り、反マケドニアを説きます。この際に、マケドニア人への排斥が高まったこともあり、アリストテレスはアテナイを出て母の故郷エウボイア島へ渡り、翌前322年に死去します。

 アテナイはデモステネスの動きもあり、他のポリスとともにラミア戦争へ突入しました。諸ポリス連合軍は緒戦に勝利し、アンティパトロスをラミアに籠城させます。窮地に陥ったアンティパトロスは援軍を求めます。

 要請に応えてまずやってきたのが、インドでアレクサンドロス3世の命を救ったレオンナトスです。この度も、レオンナトスはアンティパトロスをラミアから脱出させましたが、レオンナトス自身は戦死してしまいます。

 続いてやってきたのが、重装歩兵を率いてグラニコス川の戦い、イッソスの戦い、ガウガメラの戦いの3大会戦を始め、東征で重装歩兵を率いて活躍したクラテロスです。クラテロスの援軍のお陰でアンティパトロスは連合軍を打ち破ることに成功します。

 考えてみれば皮肉な巡り合わせです。なんとなれば、アレクサンドロス3世が死の直前にアンティパトロスを更迭して代わりにクラテロスを据えようとしていたのですから。クラテロスはマケドニアに向かいますが、その途中で王が死去したために果たされないままとなっていたのです。

 アンティパトロスは娘をクラテロスに嫁がせ、恩に報いました。

 反乱が鎮圧されたため、反マケドニアの闘士デモステネスは自害して果てます。カイロネイアの戦いにおける命乞いや、客観情勢を無視した反マケドニアの動きは酷いレベルであるとは思いますが、弁論家としては優秀だった(余計に質が悪い気がしますが)男はこうして散って行きました。前322年のことです。

 この後ギリシア諸ポリスは徐々に独立を失い、アンティパトロス朝マケドニアへと同化していくことになります。

 ペルディッカスはこのアンティパトロスとも結ぶことで権力基盤を強化しようとします。彼が選んだのは、アンティパトロスの娘と結婚することで縁戚関係を築こうというものです。

 ところが、思わぬところから横槍が入ります。アレクサンドロス3世の母、オリュンピアスは、息子の存命中からアンティパトロスとはマケドニアの支配を巡って熾烈な主導権争いを演じていました。オリュンピアスにとっては、この縁談はアンティパトロスの力を強化することになりますから、受け入れ難いものでした。そこでオリュンピアスは自分の娘とペルディッカスを結婚させようと目論みます。


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2016年03月11日

ヘレニズム期 ディアドコイ戦争3 ペルディッカスの八方美人な振る舞いがアンティパトロスとの対立を決定づける

 ペルディッカスはここでイソップ物語にあるコウモリのようなことをやろうとします。

 イソップ物語のコウモリは、鳥と獣が喧嘩をしている際、鳥が強い時には「自分には羽があるから鳥の仲間だ」と言い、獣が強くなると「自分には毛が生えているのだから獣の仲間だ」と、二股膏薬をかけていたのですが、鳥と獣が喧嘩をやめてしまったらどっちつかずの態度が災いして仲間が居なくなってしまいました。イソップは前6世紀の人ですから、ペルディッカスもこの話を知っていたのかもしれません。しかし、それでも人間は目の前の欲に釣られて判断力を曇らせてしまう生き物なのです。

 彼は、まずアンティパトロスの娘を娶り、すぐに離縁してオリュンピアスの娘と結婚しようとします。どう見ても、アンティパトロスは蔑ろにされていますよね。

 当然のことに、アンティパトロスは反ペルディッカスとなります。アンティパトロスは同志を募り、反ペルディッカスの戦争を起こします。当然、女婿にあたるクラテロスはアンティパトロスと共に挙兵します。他にアンティパトロス側に立ったのは、エジプトを支配するプトレマイオスや、小アジアのアンティゴノスです。

 ペルディッカスの側にはカッパドキアのエウメネスやバビロンのセレウコスが付きました。

 アンティパトロスは軍を2つに分け、クラテロスを小アジアに渡らせてエウメネスと対峙させ、自らはエジプトへ向かいます。ペルディッカスもまたこの動きに呼応し、小アジアへは武将のネオプトレモスを派遣してエウメネスと共に敵に当たらせ、ペルディッカス本人はエジプトに向いました。

 小アジアのエウメネスとクラテロスが戦うことになったのは皮肉です。彼らはアレクサンドロス3世の部将だった頃には親しく付き合っていた仲でしたから。まずこちらの顛末を書いてしまいましょう。

 エウメネスの指揮下に入れとの命令を受けて小アジアに渡ったネオプトレモスは、文官だったエウメネスをリーダーに頂くことを受け入れがたかったのか、直ちにアンティパトロス派と連絡を取ります。この動きを察知したエウメネス直ちに出撃し、ネオプトレモスの軍を破ります。ネオプトレモスはクラテロスの陣営に逃れ、残兵はエウメネスが吸収しました。

 こうしてクラテロス・ネオプトレモスが結びつき、彼ら対エウメネスの間でヘレスポントスの戦いが行われます。


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2016年03月12日

ヘレニズム期 ディアドコイ戦争4 優柔不断なペルディッカス、ナイル川渡航にまごつき暗殺される

 クラテロスは「王の友」と呼ばれるほどアレクサンドロス3世の信任厚く、しかも王のペルシア趣味には断固反対の態度を貫くことで兵士たちの輿望を集めていました。ろくに戦場で活躍していないエウメネスより人望があったことを、エウメネスは理解していました。ですから、エウメネスはクラテロスの正面にギリシア語を解さない兵士を集め、一気に攻撃させます。

 攻撃は奏功し、クラテロスはほぼ何もできないまま戦死、ネオプトレモスもまた討ち取られます。小アジアではペルディッカス派が勝利を収めたのですが、衆望を担っていたクラテロスを殺したことはエウメネスに対するギリシア人の支持を失わせることにつながりました。

 ところが、小アジアにおけるペルディッカス派の勝利は、その僅か2日前に肝心のペルディッカスが死んだことで水泡に帰します。

 ペルディッカスは、前321年エジプトに渡りプトレマイオスと対決しようとしますが、ナイル川の渡河すら果たせない姿を見たセレウコスらによって翌年の前320年に軍中で暗殺されてしまったのです。

 領袖を失ったペルディッカス派はこれでほぼ瓦解したことになります。

 ペルディッカスの死を受け、シリアでトリパラディソスの軍会と呼ばれる協議が行われ、領土分割の協定が結ばれます。ペルディッカスの摂政の地位を引き継いだのはアンティパトロスで、息子のカッサンドロスは騎兵隊のトップである千人隊長に任じられます。そして、協定ではペルディッカス派の追討が決定されました。

 帝国の軍を率いることになったのはアンティゴノスです。

 この組み合わせも皮肉なもので、アンティゴノスとエウメネスもアレクサンドロス3世の下では親しく付き合う仲でした。

 アンティゴノスとエウメネスはオルキュニアで戦います。エウメネスはアンティゴノスに倍する兵力を集めていたのですが、部下アポロニデスの裏切りにあって敗北します。ただ、敗走前にアポロニデスに逆撃を加え、裏切りに死をもって償わせました。

 エウメネスは敗れた後もアンティゴノスに対抗しようとしますが、上述の通り兵士に好かれていなかったため、ほとんどの兵士は逃げ散ってしまいます。彼はカッパドキアにある難攻不落の要塞ノラに600(または700)の部下と共に立て篭もりました。



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