2016年01月10日

アレクサンドロス大王 マケドニアの成り立ち ワインは生で飲む、ギリシアから見れば蛮族の国

ポリスが乱立する時代を強引に終わらせたのは、北方にあり、かつては辺境の小国に過ぎなかったマケドニアでした。まずはマケドニアの成り立ちについて触れましょう。

 マケドニアはギリシア北方に位置します。マケドニア人の祖先はバルカン半島北方のピンドス山脈で遊牧生活を送っていて、前7世紀頃に移動してきたと言われます。民族名が「高地の人」なのはこうした来歴を受けてのことです。民族的な出自も他のポリスの人々とは異なっています。ただし、使っていた言語はギリシア語系でした。

 山地が多く耕作地が少ないギリシア本土とは異なり、平野が多くあるためウマの飼育が盛んで騎兵が発達しました。地形の違いはそこに住む人の違いにもつながり、ギリシアとは随分と異なる風習がありました。例えば、ギリシアといえばワインを割って飲むことで有名ですが、マケドニアでは生で飲まれていました。酔ったうえでの乱痴気騒ぎが日常だったそうです。

 武断的で、槍のみで野猪を仕留めたことがなければ貴族の子弟であっても一人前扱いされることはありませんでした。一人前ではないとされる一例として、食事の際に横になることを許されずに椅子に座ることとされたことがあります。

 ギリシアとは大きく雰囲気が異なりますね。実際、ギリシアの人々はマケドニア人を蛮族(バルバロイ)と呼んでいました。

 古代オリンピックには当初参加していませんでしたが、アレクサンドロス1世の時代、自分たちはアルゴス人であると主張してオリンピア参加資格を手に入れます。アレクサンドロス1世は1スタディオン走(180メートル走)において好成績を収めたそうです。

政治的には王政をとっていました。王にあたる言葉「バシレウス」は、後に東ローマ帝国の皇帝が名乗るようになる称号となります。

 北方に位置するということは、ユーラシア大陸から半島となっているギリシアへ陸路で進むためにはマケドニアを通らなければなりません。こうした背景もあり、マケドニアは長くペルシアに隷属していました。ペルシア戦争では、アレクサンドロス1世はペルシア嫌いでしたが、ペルシア側に立って参戦せざるを得ませんでした。

 ペルシア戦争時には中立だったりペルシア側に立ったポリスも決して少ないわけではありませんから、さして珍しいことではない、くらいに思っておけば良いでしょう。なにしろ、中東一帯を支配する強大な帝国に、都市連合でしかないギリシアが立ち向かうのですから、多くの人はギリシアの敗北を予期していたわけです。

 親ギリシア派だったアレクサンドロス1世はテッサリアに進出したギリシア軍に撤退を勧告することに見られるように、親ギリシアの立場をこっそり取り続けます。サラミスの海戦に敗れてクセルクセスが撤退した後、ギリシアに陸軍を率いて残ったマルドニオス征討においても、アテナイにマルドニオスの作戦を通報してプラタイアイの戦いにおける勝利をお膳立てを整えました。

 戦後はアテナイへ大量の木材を輸出することで、強国となったアテナイに欠くことのできない存在となり、存在感を高めます。たかが木材と思われるかもしれませんが、船の建材としてアテナイでは大量の木材が不可欠でした。立派な軍需物資だったのです。



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2016年01月11日

アレクサンドロス大王 フィリッポス2世の軍制改革1 テバイの英雄エパメイノンダスに学んだ戦術の発展

 ペルシア戦争後、ギリシア本土ではポリス間の相剋が激しさを増し、ペロポネソス戦争や神聖戦争等、果てしない争いが繰り広げられました。中産階級は没落し、武器は自弁だったためにギリシアの精強無比な存在だった重装歩兵も軽武装となっていきました。

 こうした中、マケドニアは戦乱に巻き込まれなかったことで相対的に力を蓄えていきました。

 アレクサンドロス1世の2代後に即位したアルケラオス王はペラに新首都を築きます。この都市は宮殿建築、絵画、彫刻、モザイク、等々の全てが完全なギリシア風でした。教育にはギリシア文学を取り入れ、ギリシア悲劇は帰属の必須科目となった程です。戦乱の故郷を去ってマケドニアへやってきた人も多く、芸術も花開くようになっていきます。

 前370年、アミュンタス3世が没すると、王族のプトレマイオスがテバイの支援を受けて権力を握ります。この際、王族を含む名族の若者30人が人質としてテバイに送られることとなりました。プトレマイオスの傀儡となったアレクサンドロス2世の弟であるフィリッポス2世もその1人です。

 フィリッポス2世はその頃、多感な10代の若者でした。ちょうと、エパメイノンダスがテバイを率い、スパルタに勝利した直後の頃です。フィリッポし2世はテバイでレウクトラの戦いに参加した人々から直接話しを聞くことでファランクス戦術を学びました。あるいは、同性愛もまた、テバイで学んだかも知れません。

 プトレマイオスはアレクサンドロス2世を暗殺する等、専横を振るうのですが、アレクサンドロスの弟ペルディッカス3世に殺害されてその生涯を閉じます。フィリッポス2世は人質生活を終え、帰国しました。

 大きな転機を迎えることになったのは、前359年にイリュリア人から攻撃を受けたことです。王のペルディッカス3世が迎え撃ちますが、敗死してしまいます。ここで登場するのが、亡き王の弟で23歳の若さだったフィリッポス2世です。翌年、フィリッポス2世はイリュリア人を破ると、以後はマケドニアを強国に導いて行きます。

 最初の2年でパンガイオン、トラキア、カルキディケと、各地に転戦して領土を獲得していきます。特に、パンガイオンの獲得は、金鉱を得た点で他に代え難いものでした。フィリッポス2世は、このパンガイオン鉱山から毎年1,000タラントンの収入を得、それを元手にテバイでの経験を活かして大掛かりな軍政改革を行います。

 この頃にはギリシア諸都市は延々と続く戦争に疲弊し、軽装化していきました。こうした流れに逆らうように、フィリッポス2世は鉱山からの豊富な資金を武器や防具に変え、兵士に配布することで、マケドニア軍を重装化していきます。おまけに、兵士を専属の軍人とし、鍛錬を積み重ねることで強力な軍を得ます。ギリシアでは、スパルタで自由市民がひたすら軍事教練を重ねたり、テバイでごく一部の兵士が専属だった事例はありますが、ここまで大規模に専属軍人から成る部隊を組織したのは独特です。

 装備もまた、ギリシア式から大きく変えます。最大のものはサリッサと呼ばれる長槍で、ギリシアの槍は2m程度だったのに、マケドニアではなんと長さ5.5m、およそ7kgにもなる巨大なものでした。当然、片手で扱うことは出来ません。両手持ちです。穂先は鉄製で小ぶりだったため、貫通力に優れていました。これに2メートルの槍と短剣も携えます。

 吶喊の際の掛け声も有名です。行軍は無言ですが、いざ突撃するとなると軍神エニュアリオス(アレスのギリシア人による通称)の加護を頼んで「アララララーイ!」と叫びながら敵陣へ駆け出します。投槍を右手に持ち、左手にはサリッサ、左腰に剣を帯びています。槍を投げた後にサリッサを両手で握り直しました。

 ギリシアのファランクスより長距離から攻撃することが可能となったことは大きいですね。




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2016年01月12日

アレクサンドロス大王 フィリッポス2世の軍制改革2 強力になったファランクスと騎兵を連動させ、無敵の軍を作り上げる

 リーチの長さだけではありません。防具を工夫することで攻撃力を増す改革も行います。

 丸盾を首から下げ左肩を守り、全身を覆う鎧は廃止して胸当てのみに簡素化しました。兜と脛当ては残しています。ギリシアファランクスの特徴である大きな盾を無くした分、隊列はより密集することが可能となりました。

 また、ギリシアのファランクスは右手に槍を持ち、左手に持った巨大な盾で自分の左半身と左隣の仲間の右半身を守るため、部隊は右側を守ろうと右へ右へ動いたのに対し、マケドニアのファランクスは首から下げた盾で自分を守るため、右へも左へも旋回が可能となりました。

 ギリシアよりもより密集し、より長い槍を構えるマケドニアファランクス。一般には前4列が槍を正面に向け、後4列は斜め上に構えて臨戦態勢を取ります。ただ、隊列を詰めて5列目まで槍を正面に向けることもありました。

 気になる隊列の組み方は、熟練兵が後ろに付いて経験の浅い兵士を励まし、指導するようになっていました。

 ……誰しもファランクスの最前列にはなりたくありませんよね。

 理想とされたのは、64の大隊(1大隊は横16×縦16で256人)で組み立てられます。部隊は縦16人が1つのまとまった集団となり、各列の先頭が隊長となり、副隊長が最後尾について部隊を率います。

16人から成る縦の部隊は更に4人ずつのグループに細分化されており、状況によっては横に広がることも含め、自在に隊列を組み替えられました。

 行軍の際には2列で進み、編隊を組むときにはまず16×16に、ついで列後半の8人が列と列の間を通って前に進み、横32×8の隊列に、更に64×4の隊列にという動きがスムーズに取れたのです。敵の陣形や隊列の長さに応じて自在に動けたわけです。

 歩兵隊は行軍時、武器と防具は身にまといますが、兜は持ち運び、日よけ用の帽子を被っていました。自分の食料、私物も運ばなければなりません。しかも、食料は自弁でしたので、輜重隊の後ろからは商人や売春婦、兵士の家族らが付き従いました。尚、怪我人は輜重隊に運ばれたようです。テントも自分たちで運びます。テントは水を通しにくい革製の袋に入れて運ばれました。この革の袋はテントの入り口の帳として使われる他に、川を渡る際には中に草を詰めた上で縫い合わせ、ボートとしても使われました。即席ボートに役畜を乗せて渡河したのです。浅い川なら、騎兵や歩兵はボートや船に乗りませんでしたが、大きな川では3段櫂船が用いられることもありました。

 着火は一苦労だったため、ギリシアの軍隊では一般的に火をツボの中で燃やし続け、運んだそうです。

 行軍速度は速く、2週間で640kmを踏破したそうです。マケドニア軍の行軍速度は尋常ではなく、しばしば敵の意表をつくことができました。

 短期間であればもっと速い記録があります。マラトンの戦いの際、スパルタからの援軍が200kmの距離を2日で駆けつけたという記録もありますが、徒歩で1時間5kmのペースでも40時間と寝ずの行進ですから、長期間の移動をこのペースで続けることは不可能ですね。

 歩兵の改革だけではありません。ウマの産地であることを活かして騎兵隊を組織し、ファランクスと有機的な連携をさせるようにしました。

 マケドニアの重装騎兵は騎馬親衛隊「戦友隊(ヘタイロイ)」が発達したものです。強力な騎馬軍団は徐々に拡大され、アレクサンドロス3世の代では総勢1700人8大隊が編成されました。ペルシアへの遠征では、このうち内300騎を近衛部隊としています。

 ヘタイロイはまさに軍の中核をなすエリート部隊であるのみならず、軍の司令官や将軍を輩出する、登竜門のような位置づけもされていました。ヘタイロイには小姓や盾持ちが従い、彼らは認められればヘタイロイに登用されました。こうした流動性は兵士に活気を与えました。


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2016年01月13日

アレクサンドロス大王 フィリッポス2世の軍制改革3 騎兵の工夫と攻城兵器の発展

 騎兵の陣形にも工夫が加えられました。ギリシア騎兵は横16縦8の方陣、テッサリアは菱型だったのに対し、マケドニアは楔型(三角形)で、より打撃力を活かす陣形でした。大隊は200騎で構成されます。大隊は更に49人からなる4つの分隊からなり、それぞれくさび形(1,3,5,7,9,13騎が並ぶ)に編成されます。先頭が分隊長、最後列の左右と中央には上級騎兵が配置されていました。

 ウマは駆け足になると他のウマと距離を取る習性があるため、隊列は横に広がります。隊列の形状とウマの特性から、動きは柔軟性を増し、斜め方向にも動けるようになります。アレクサンドロス3世の遠征時、マケドニア軍右翼の側面へと回り込もうとするペルシア騎兵は、雁行型に繰り出される騎兵隊によってどんどん左へ左へと動いていき、本体から切り離されます。この隙を衝いて、アレクサンドロス3世の率いる本隊がペルシア軍の司令部へ切り込んでいくパターンが繰り返し見られます。

 尚、大隊長、分隊長、上級騎兵は兜の形状で区分されていました。騎兵の武器は槍で、穂先はしばしば壊れるため、替えの穂先がこじり(穂先を包む金属部分)に付けられていました。

 この時代にはまだ鐙がありませんから、騎手は自分の腿でウマを挟んで身体を固定するしかありません。中世の槍は脇の下に構え、ウマの突進力によって突き刺すものでしたが、こうした戦い方をすれば騎手が落馬してしてしまいます。必然的に、槍は投槍あるいは騎手自身の力で相手を刺すために使われました。

 マケドニアはいくつかの事務局からなる組織で運営され、各部門は書記官が管理していました。軍も同様で、軍隊における最高位の官位は軍書記官です。東征時にはアレクサンドロス3世と共にアリストテレスに学んだエウメネスが就きました。アレクサンドロス3世は、指揮官も、軍制も、信頼する仲間に任せることが出来たのです。

 攻城兵器にも触れておきましょう。

 兵器は大別すると2つに分かれます。1つは攻城塔で、もう1つは破城槌です。攻城塔とは、城壁よりも高い塔を築き、城壁の上から遠距離攻撃をするものです。破城槌は城門を破壊するための道具で、鐘を突く撞木を移動式にし、操縦手を敵の攻撃から守るために屋根を付けたものです。

 このうち、攻城塔についてもう少し触れましょう。攻城塔は、高いものですと数階建ての高さとなり、最上階には弩砲と呼ばれる飛び道具が据えられました。

 弓矢の威力や飛距離は糸にかかる張力に依存します。では飛距離を伸ばすには張力をどんどん高めていけば良いかというと、理屈上は正しいのですが、やがて手の力だけでは糸を引けないようになってしまいます。そこで出てきたのが、両手を使ったり、クランクのような器具を用いたりすることで手で引くより遥かに強力な武器が編み出されます。それが弩砲です。

 最も初期の弩は、通常の弓矢に、矢をセットする滑り溝が付いたもので、滑り溝の先端部を地面に付けて糸を両手で引きました。更に威力を求めた結果、1人の力では糸を引けないような大型の弩が生まれ、更に投射物を矢に限定しない弩砲が生まれます。

 投射機を作る際に必要となる捩り綱の材料である、女性の髪と動物の腱は貴重品だったそうです。



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2016年01月14日

アレクサンドロス大王 フィリッポス2世の軍制改革4 

 弩が生まれたのはシラクサの僭主ディオニュシオス1世の要請に技術者が応えたものでした。ディオニュシオスはカルタゴとの戦いで名を挙げ、やがて独裁者となった人物です。カルタゴは攻城塔や破城槌といった、当時の最先端技術を使ってシラクサを攻撃しました。そうした技術に対抗すべく、弓矢の威力を飛躍的にあげたのです。

 攻城塔、破城槌、突堤、弩砲は戦場の必需品となっていきます。また、城壁の地下に木材で地面を支えながら地下道を掘り、目的地まで掘り終えたら木材に火を放って城壁ごと崩落させる、といった戦術が使われました。もとはペルシア軍が使っていた作戦を、ギリシアやカルタゴが取り入れたそうです。前4世紀以後、都市は木材とレンガから石造りに変わっていますから、工場技術もそれに合わせて進化しているのですね。

 アレクサンドロス3世の征服でもこうした大型兵器が活躍します。後にテュロスの包囲戦を眺める際に、これらの活躍を見ることになるでしょう。

 防御側も戦術に磨きをかけます。これ以前から使われていた城門への接近を妨げるような構造や2重の城壁に加え、櫓に投射兵器をセットしたり、防御側は攻撃の自由度を確保しつつ攻撃側は反撃困難な銃眼を作ったり。また、攻城塔の接近を防ぐため、掘が巡らされました。

 ただ、どれだけ堅固な城壁に囲まれても、どれだけ防御装置を張り巡らせても、攻撃側があらゆる手段を講じれば、防御側は敗北してしまうように見受けられます。テュロス攻囲戦で、その模様を見ることになるでしょう。

 尚、古代の弾道兵器の標準有効射程は450メートルを越えません。ですから、攻城塔は城の近くに建てなければ意味をなしませんでした。防御側の火箭を防ぐための工夫として革が張られました。

 フィリッポス2世に話を戻しましょう。

 彼は軍事的な才能に恵まれただけではなく、政治的にも上手く立ち回ります。

 その1つが婚姻政策です。一夫多妻の習慣に従い、周辺国の王家、貴族と婚姻関係を結んでいきます。フィリッポス2世がその生涯で迎えた7人の后の中、6人がこうした政略結婚に基づくものでした。

 政略結婚として娶った1人が、エペイロスの王女で16歳の若さだったオリュンピアスです。その祖先はアキレウスに遡るとされます。真贋は兎も角、そう主張しても誰も文句を言えないだけの名門だったことは間違いありません。

 彼女は激しい性格の持ち主で、デュオニソス教という密儀宗教を信じる女性でした。ワインの神デュオニソスを崇める宗教で、しばしば信者は熱狂的な祭りを行い、ヘビを崇めるといった教義を持ちました。このこともあり、オリュンピアスはヘビと寝ていたと唱える人もいます。ヘビは神秘性と力の象徴で、現代でもヘビを好む女性は少ないとはいえ珍しいとまでは言えないことを考えますと、オリュンピアスがヘビ好きであったことはありえるでしょう。但し、ヘビは人になれることはあれども決して懐くことはありませんので、もしオリュンピアスがヘビと一緒にいたとしても、ヘビからすればせいぜい温かくて良いなあ、くらいの感覚だったことでしょう。

 婚礼の夜、彼女は雷が腹に落ちて火が燃え上がり、燃え広がってから消えるという夢を見ます。一方、新郎のフィリッポス2世は、妻の腹に獅子の像の刻印をしている夢を見ます。

 2人の謎めいた夢に対し、アリスタンドロスという占い師がオリュンピアスの妊娠と、生まれてくる子が獅子のように勇ましい性格を持つと解釈してみせます。

 このアリスタンドロスは、アレクサンドロス3世の東征にも同行し、よく当たる占いで東征の一助となった人物です。




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