2015年09月21日

古代ギリシア プレギリシアとしてのフェニキア1 フェニキアの名前の起源はアッキガイ

 ここまで書いてきた中で、ちらほらと名前が出てきたフェニキア人についても少し触れておきましょう。いえ、知の歴史を考えると、彼らのことは大書すべきかもしれません。

 ユダヤ人のところで触れたカナンは、フルリ語の紫から来ているとされています。彼らが使っていた紫の染料からです。アッキガイ(悪鬼貝、俗称はムラサキガイ)の内蔵から分泌されるこの染料1gを得るには約1万個の貝が必要とのことですから、特別な人しか使用を許されませんでした。

 後のローマ時代、皇帝の公式の着衣はアッキガイを用いた紫の衣でした。ただ、この染色方法は東ローマ帝国の滅亡とともに失われてしまったそうです。

 赤紫をギリシア語読みしたのがフェニキアです。カナンもまた紫(セム語でキナックというそうです)を意味していたそうで、このことからカナンのギリシア語読みがフェニキアとされることもあります。

 彼らは西欧の知に大きな影響を与えました。それについて触れる前に文字の歴史を追いかけてみましょう。文字が誕生したのはメソポタミアでしたね。エジプトやインダスといった周辺の文明における文字の使用はメソポタミアに触発されてのことだとされています。メソポタミアでは2,000字ほどの楔形文字が使われました。しかし、2,000字を覚えて使いこなすのは大変なことです。日本で言えば、漢字検定2級が2,000字強で、扱うのは高校卒業までに習う常用漢字です。私について言えば、読む自信はあっても書けるとは思えません。

 文字数が多いことは、それだけ教育コストがかかる、一人前の書記となれる者が限られるといったデメリットを抱えます。しかも、コンピューターが基本的には0と1の2文字しか持たないのにあらゆる文章を表現できるように、適切な組み合わせさえできれば、文字数が少ないことは表現力にとって不利にはなりません。

 ですから、時代が降るに従って、文字数はどんどん減っていきます。バビロニアで600字、アッシリアで350字となっていきます。きっと当時における中年や老年の人々は「最近の若者は字もろくに書けぬ」だとか、「儂らの若いころはこんな表現はしなかった」と嘆いていたことでしょう。現代と全く同じように年配の方々の嘆きは無視され、文字はどんどん減っていきます。


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2015年09月22日

古代ギリシア プレギリシアとしてのフェニキア2 アルファベットの母体となったフェニキア文字

 カナン語を元にフェニキア語の文字が組まれた際、文字は22まで減っていました。同時期、楔形文字も30字まで減っていたそうです。フェニキア人は地中海を股にかけて海上貿易を行っていましたから、22文字の影響が各地に及びます。そうした地域の1つがギリシアで、ギリシア人はフェニキア文字に2字を加えて24字の言葉を組みます。ギリシア語の最初の2文字がアルファとベータだったことから、この文字をアルファベットと呼ぶようになりました。

 文明の中心地で数千字もあったものが、辺境の地で簡略化されていくところは、中国から漢字を輸入してかな文字を作った日本のようですね。ゼロから文字を生み出すだけの文明は、人口や余剰生産物が多いために、何千字も持つようなややこしい言葉でも、それを必要とする人々に教育する余裕があったのかもしれません。

 ギリシア人の発明としては、子音しか無かったフェニキア文字を受け入れた際、アルファを母音としてしまったところでしょう。アルファ以外にも母音を付け加えたことで、文字を見れば発音まで分かるようになりました。

 フェニキア文字からギリシア語(アルファベット)への進化と平行して、中東世界でも簡略化された文字が使用されるようになっていきました。文字数が少なければ文字を読むための入り口は広がりますから、利便性が伝統に打ち勝ったと見て良いでしょう。言語はそのようなものですし、またすべからくそうであるべきです。

 さて、フェニキア人はアルファベットを用いて各地を回りました。いかにも海を活躍の場とした民族らしく、ジブラルタル海峡について、彼らは冥界の神メルカルトが大西洋と地中海を結ぶ航路を作るために地を引き裂き、裂け目が元に戻らないように両岸に2本の柱を打ち込んだ、というような神話が残っています。彼らの奉じた神はエルやバアルといった、中東で信じられてきた神と共通です。


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2015年09月23日

古代ギリシア プレギリシアとしてのフェニキア3 地中海を席巻したフェニキア人

 彼らについて書いておかなければならないのが、前9世紀に北アフリカにKart-Hadasht、「新都市」と呼ばれる植民都市を築いたことでしょう。

 伝説では、テュロス王の娘でメルカルトの神官ディードーに率いられてこの地へやってきたフェニキア人は、支配者に土地を分けてくれと頼みます。そのようなことを言われても、頼まれた側は素直に分けてやるつもりなどありません。しかし無下に断ることもせず、1頭の牛の皮で覆えるだけの土地をやろうと告げます。すると彼女は牛1頭の皮を細かく引き裂いて土地を広く取り囲んでしまいました。

 こうして得た土地に砦を築いたのが「新都市」、彼らの言葉でカルタゴとして知られるようになる街です。

 カルタゴは通商国家として西地中海を支配しました。その痕跡は今も地名に残ります。例えばポルトガルの首都リスボンは「素晴らしい港」、スペインのカディスは「城壁」、ピカソの出身地マラガは「商館」、そしてバルセロナは「バルカ家の町」を意味するフェニキア語から付けられた名前です。

 最後に挙げた「バルカ家の町」のバルカは、かのポエニ戦争で名高いバルカの一族のことです。ハンニバル・バルカがスペインからアルプスを越えてローマに攻め込んだ背景にはこうした歴史があります。

 フェニキア人は海上貿易に注力し、大帝国を創るようなことはしませんでした。後のギリシアのようなポリス規模に留まったようです。彼らの船は船底に竜骨(キール)を持つ、頑丈な構造でした。微小な隙間を塞ぐために、タールやアスファルトが使われています。こうして作られた船は積載量250トン以下、1日に50キロ程度を航海できたそうです。

 彼らの航海術が優れていたことは、前6世紀、エジプト第26王朝のネコ2世の命を受け、ペルシア湾から南下しはるばる喜望峰を経てアフリカを周回したと伝えられることから見て取れるでしょう。これだけの航海術があれば、理論的にはアメリカ大陸まで渡ることができたとされます。

 当初は昼にしか航海を行わなかったそうですが、やがて星座のこぐま座を目印に、夜間も行動するようになります。ギリシア人がこぐま座をポイニケ(フェニキオ)と呼ぶのはこれが起源ということです。

 彼らの活躍はペルシア時代にまでしっかり引き継がれていました。ペルシア戦争においては、海上戦力はフェニキア人が中心だったそうです。地中海は彼らの海だったのですね。

 やがて他の民族による大帝国が海の覇権を握ろうとした時に、フェニキア人との間に争いが起こります。それは後に書くことにして、ここではフェニキア人が西洋社会へアルファベットを伝えたこと、ギリシア神話において、ゼウスが雄牛に化けて攫った美女エウロパ(ヨーロッパの語源となった)がフェニキア人であったことを押さえて満足することとしましょう。

 いよいよギリシアに取り掛かろうと思います。


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2015年09月25日

古代ギリシア 古代ギリシア社会1 ギリシア文明の背景と最初の醸造酒とも言われる蜂蜜酒

 ギリシア世界は地中海気候に含まれる地域です。地中海気候とは、概して暑く乾燥した夏と穏やかで雨の多い冬を特徴とします。もっとも、雨は地中海の北側(ヨーロッパ)で多く、南側(アフリカ)で少ないので、アフリカ川ではほとんど雨は降りません。エジプトが灌漑を遥か上流で降る雨で潤うナイル川に依存するのはこれまでに見た通りです。海は、蒸散量が多い一方で降水量が少ないことに加え、ジブラルタル海峡が狭く大西洋都の海水循環がほとんどありませんから、大西洋と比べて塩分濃度は高めです。

 なお、ギリシアという呼び方はラテン語です。ローマ人が西方で出会った一部族の呼び方で、ギリシア全土の人々を呼んだことが起源です。それを考えると、ローマに占領される以前の古代ギリシアに対してこの言葉を使うのは不適切な気がしなくもないのですが、他の呼び方をしても分かりにくいばかりですので、ギリシアと呼んでおきましょう。

 中石器時代には既に、ギリシア文明が花開く土地に人が渡っていました。前3000年紀末、印欧語族の大移動が起こります。ヒッタイトが小アジアへ、ミタンニがメソポタミア北部へ、そしてカッシートがバビロニアに移ってきます。ギリシア人が南下してきたのも同時期のことです。勿論、彼らが最初にこの地へやってきた人々というわけではなく、先住民を追い払いながら、あるいは同化しながら支配を確立していくことになります。

 この時期にはまだ文明化はされていません。農耕に代表される文明は東からやってきたものです。フェニキアで触れた通り、文字もまた輸入品でした。東から西に向かう文明の流れは、例えば農耕がギリシアでは前8,000年紀に、より西のスペインでは前6,000年紀に始まったり、青銅器文明がギリシアでは前4,000年紀の末までに、スペインでは前3,000年紀末まで現れないといったところにも見られます。ややフライング気味に触れておきますと、鉄器時代が訪れるのはギリシアが前11世紀、スペインは前8世紀です。

 イギリスの評論家コリンウィルソンは、「人類の文明は酒に酔うことなしには始まらなかった」と喝破しています。揺籃期の文明が酒と共にあったのは紛れも無い事実です。ここヨーロッパの地も同じこと。愛飲されたのはハチミツ酒(ミード)です。

 ハチミツは腐らないことで知られます。含有する水分が少ないために浸透圧が高く、細菌が生き延びられないためです。細菌は成長する際に周囲から水分を取り込みますが、このように浸透圧が高い環境下ですと、逆に水分が奪われてしまうのです。細菌が繁殖できないということは、同時にアルコール発酵もできないことを意味します。ですから、ハチミツ酒を作るためには浸透圧を下げる必要があります。つまり、ハチミツを水で薄めてあげれば良いのです。薄まったハチミツを放置しておけば、自然とアルコール発酵が進み、ハチミツ酒が完成します。

 見てお分かりの通り、ハチミツ酒の作り方は簡単です。保存中に雨水等で薄まってしまったハチミツが自然とハチミツ酒となったのでしょう。麦をまず発芽させて麦芽とし、更に水に浸けて発酵させるビールと比べると遥かに簡単です。そのため、はっきりした文献では残っていませんが、ハチミツ酒は最も古い醸造酒であると言われます。


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2015年09月26日

古代ギリシア 古代ギリシア社会2 エーゲ文明と線文字B

 ギリシア最古とされる文明はエーゲ文明です。ここに属するのが、トロイア戦争の舞台となったトロイア文明ミケーネ文明、そしてミノア文明で、前2,000年頃のことです。

 前2500年にはクレタ島でオリーブ栽培が始まっていたことは分かっていますから、文明化された時にはすでにオリーブオイルが使われていたのですね。

 ミノア文明は、神話に謳われるミノス王に因んだ名前です。クレタ島に巨大な神殿が見つかったため、ミノタウロスを閉じ込めた迷宮を持ったとされるミノス王に因んだ名前が付けられました。この伝説には後に触れることにしましょう。

 文字は前18世紀に使われ始めました。宮殿跡からは多くの文書が出てきています。そこで見られる文字は3種類あります。絵文字、そして2種類の線状の文字です。後者のうち、古い方を線文字A、新しい方を線文字Bと呼んでいます。

 線文字Aは解読されていませんが、線文字Bは1953年に若き建築家、マイケル・ヴェントリスによって解読されました。解読成功からわずか3年後、彼は自動車事故によって人生の幕を下ろします。この時、わずか34歳の若さでした。彼の人生は線文字B解読のためにあったと言っても良いかもしれません。

 ヴェントリスの解読成功は、彼1人の業績ではなく、多くの史料や先行する研究者の働きがあってこそのものでした。

 特にピュロスという場所から発見された600枚にも及ぶ線文字Bの文書(これをピュロス文書と呼びます)の存在が大きかったようです。文書が多いことは解読の必要条件ではあるかも知れませんが、十分条件ではありません。解読に結びついたのは、線文字Bはギリシア語であるという仮定でした。

 線文字Bは90文字程度知られておりますので、かな文字と同じように音節文字だった可能性が高いそうです。文字をバラバラにして、音を当て嵌めてみることを繰り返すなかで、ギリシア語に相当する単語が幾つも得られました。この発見により、ヴェントリスは解読に成功したと主張します。

 彼が正しかったことは、同じく1953年に発見された壷に関する文書の中にヴェントリスの方法で読める単語があったことから決定的となりました。ただ、未だ完全解読とは至っていないようです。また、記録が王宮の財産についてのものばかりということもありますので、当時を再現するための史料としては不十分なものではあります。


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