2020年09月16日

三国志 長安遷都4 皇甫嵩は独立勢力となることを勧められるが拒否 董卓は長安遷都を強行し、自ら太師となる

 しかし、皇甫嵩はこの忠言に従わず、招聘に応じて董卓のもと訪れ、そこで獄に下されてしまいます。董卓は皇甫嵩を誅殺しようとしますが、董卓とかねてから親しかった皇甫嵩の息子、堅寿が長安から逃亡して洛陽へ行くと、董卓を相手に涙ながらに正義を説いたことで命は助けられます。後に長安に董卓が戻ると、御史中丞以下文武百官に拝させます。その中に皇甫嵩の姿を認めた董卓は、「義真(皇甫嵩の字)よ、参ったか」と尋ねます。皇甫嵩は笑って、董卓に謝罪し、董卓は許しました。

 皇甫嵩を城門校尉に任じて中央に呼んだのは、彼が握っていた西部を管轄する軍を奪う狙いもありました。事実上、皇甫嵩が董卓と武力で対決する、あるいは独立勢力となる道を選ぶのであれば、これが最後の機会だったことになります。そして、皇甫嵩は遂に董卓と戦う道を選びませんでした。

 これは、東方と西方での温度差に対し、西方出身の皇甫嵩がどのような立ち位置を占めたのかを示唆しているように思います。

 董卓は準備を終えると長安遷都を強行し洛陽の人々を長安に移しました。長安に至った董卓は太師となり、尚父と号します。軍事力を背景に力を振るう董卓に、誰も反対などできませんでした。

 一方、董卓は献帝たちから遅れて長安に到着すると、太師となり、尚父と号しました。太師は古代に置かれていた官位で、3公や太傅の上に置かれる名誉職です。尚父とは太公望呂尚の尊号で、太師に上ったと伝えられますので、董卓は自分を太公望になぞらえたということになります。

 そして、弟の董旻を左将軍に任じて侯に封じ、甥の董璜は侍中・中軍校尉とするなど、一族はいずれも朝廷の高官に上りました。『英雄記』によれば、董卓の側室の子でまだ歩くことすらできない赤子まで侯に取り立てられたそうです。

 公卿は董卓に出会うと車の下で拝謁しましたが、董卓は挨拶すら返さなかったと伝えられます。その権威は他と隔絶し、3公ですら報告することがあれば董卓の役所を訪れるほどでした。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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