2020年09月11日

三国志 孫堅の反董卓連合軍合流 孫堅はかねて恨んでいた荊州刺史の王叡、兵糧を渡さなかった南陽太守の張咨を斬り、袁術のもとへ赴く

 せっかくの機会ですので、ここで孫堅が反董卓連合軍に参加する流れについて見ておきましょう。

 孫堅が黄巾の乱鎮圧において八面六臂の活躍を見せ、西涼における韓遂らの反乱に際しては張温に従い、不遜な態度をとる董卓を斬るべきだと進言したことはすでに見てきましたね。その後、長沙において区星(おうせい)なる者が自ら将軍を名乗り、1万人あまりを集めて反乱を起こして町を攻撃していました。それに対応するため、朝廷は孫堅を長沙太守に任じます。孫堅は様々な計略を駆使して1ヶ月もたたないうちに区星を打ち破りました。

 また、零陵や桂陽においても周朝や郭石といった者が区星に呼応して反乱を起こしており、廬江太守の陸康の従子で宜春の県長が孫堅に救援を求めます。孫堅が長沙の境を超えて討伐を行おうとすると、主簿が法律違反だと反対しました。しかし、孫堅は「私には何の文徳もないが、ただ征伐によって功績を立ててきた。郡の堺を超えて討伐を行い、他所の土地の危機を救ってやれば、そのことで罪を得たとしても天下の人びとに恥じることはない」と言うと、出兵して3つの郡の反乱を完全に鎮圧します。朝廷は孫堅を烏程侯に封じ、この功績を労いました。

 反董卓連合軍に加わる前の孫堅の立場は長沙太守だったことになりますね。反董卓連合軍が組織されるにあたり、孫堅もまた兵をあげます。ですが、その行き先ははなはだ怪しいものになります。即ち、孫堅は荊州に軍を進めると、かねてから礼に欠ける処遇を続けてきた荊州刺史の王叡を殺害してしまったのです。

 続いて南陽太守の張咨が宴席にやってきたところを、南陽郡に通知の文書を送ったにも関わらず、道は修理されておらず、軍の糧食も準備されていなかったことから、義勇軍を引き留めようとしていると言って張咨を斬りました。

 王叡については私怨の香りが漂いますし、孫破虜討逆伝にひく『英雄記』によれば張咨が食料を準備しなかったのは孫堅が隣郡の太守であって南陽郡で食料を調達するいわれが無いとの進言を受けた結果なので、特に董卓側に立っていたわけでもないように思われます。一連の孫堅の動きには、自らの野心や利益に基づく動きが感じられます。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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