2020年07月08日

後漢 後漢滅亡 劉備が蜀に拠り、漢中も制圧して3国の国境がほぼ固まる 220年、献帝は曹丕に禅譲して後漢が滅亡し、魏が成立する

 この間、劉備は火事場泥棒的に荊州南部を掠め取ります。更に214年5月には劉備は劉璋を降伏させて、益州に拠るようになります。

 214年11月、伏皇后の父伏完らによる曹操暗殺計画が発覚します。曹操は伏皇后、伏完や皇子2人を殺し、翌215年に貴人だった娘の曹節を皇后としました。こうして曹操は外戚ともなったのでした。

 216年4月、曹操は魏王となります。

 これに対し、219年5月に劉備は兵を発して漢中へ向かい、迎撃に向かった曹操に消耗戦を強いて撤退に追い込みました。この勝利をもって、7月には漢中王を自称します。

 劉備の栄光は、しかし、これがピークでした。その下降の始まりとなったのは、荊州帰属問題です。

 孫権は赤壁の戦いで曹操を破った後、当然のこととして荊州を得ようとしていました。一方の劉備は根拠地が無いという理由で、蜀を得るまで租借すると称して実効支配を続けていました。そして、蜀を得ても、荊州を呉に返すことはありませんでした。

 両者は荊州の帰属を争って険悪化したのです。孫権は荊州を奪還するため、217年に魏に服属するポーズを取ります。そして、関羽が荊州から北伐を開始すると、孫権は南から荊州を襲って関羽を敗死させたのでした。荊州が魏と呉に分割され、ここに三国の境界線はほぼ固まりました。

 220年、曹操が世を去り、息子の曹丕が魏王の地位を継承します。同年、曹丕は献帝から禅譲を受けて皇帝として即位、魏が成立します。

 曹丕が皇帝となると、蜀では劉備が皇帝を自称、やがて孫権も呉王を経て皇帝となり、国内に3人の皇帝が鼎立する三国時代を迎えることになるのです。

 こうして、新による中断をはさみながらも約400年に渡って続いた漢は、献帝をもってその幕を下ろすこととなったのでした。

 次回からは、三国時代について詳しく見ていこうと思います。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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