2020年07月07日

後漢 魏公曹操 河北を制圧した曹操、自ら丞相となって南下を開始、荊州を降伏させて呉に向かうが、孫権・劉備連合軍に敗れる

 黒山の賊というのは、185年に張牛角を始めとする指導者起こした反乱で、その兵は100万を号するほどに膨れ上がりました。張牛角の死後は褚燕なる者が反乱を引き継いでいました。褚燕は張牛角の後継者となったことからその姓も継いで、張燕と名前をかえていました。この大勢力が曹操軍団に加わったことで、曹操の力は更に増します。

 206年には曹操は旧袁紹勢力の最後の残存戦力である高幹を并州に破り、翌年には遼東の公孫康が袁紹の子で亡命してた袁尚と袁煕を殺してその首を献じたことで、華北は完全に曹操に掌握されます。

 208年6月、曹操は3公を廃止して丞相と御史大夫を置き、曹操は自ら丞相となります。そして、華北制圧の余勢を駆って南下を開始します。荊州はたまたま劉表が没したこともあり、戦わずに曹操に降ることを選びます。

 曹操は更に長江を下って揚州に拠る孫権を降そうとしますが、孫権は魯粛や周瑜といった若い部下たちの意見を容れ、各地を放浪して逃げてきた劉備と結んで曹操と戦うことを選びます。

 曹操は慣れない船師を率いて孫権を伐ちましたが、烏林と赤壁で周瑜に敗れ、撤退を余儀なくされました。

 もし孫権が曹操に降伏していたら、華北と江南を制した曹操は再統一に向けて大きな飛躍を遂げていたでしょう。しかし、曹操の敗北とともに、再統一は頓挫したのでした。

 周瑜は勝利を挙げた後に荊州に攻め寄せますが、名将曹仁の守りは固く、戦傷が原因で亡くなってしまいます。

 213年、曹操は魏公となり、九錫を加えられました。いえ、加えたとするのが正しいでしょう。なにせ、その提案を拒否できるのは曹操しかいませんから。

 王莽が漢を簒奪する前の段階として与えられた特権がこの九錫でした。そして、前漢の歴史を知る人々にとっては、曹操の意図が那辺にあるかも分かります。曹操は「我が子房なり」と、劉邦にとっての張良に当たるとまで褒めそやした荀ケを切り捨ててまで3公の地位を得、そして漢に忠誠を誓う者にとっては、曹操は危険な存在ともなったのです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村