2020年07月06日

後漢 河北統一 献帝を迎えた曹操、官渡の戦いで袁紹を破り、続いて袁紹の息子3人を各個撃破して河北を統一する

 それは則ち、軍のほとんど全てを敵に回すことを意味していました。王允が董卓の娘婿の牛輔を処刑しようとしたことから、董卓に重用されていた李?や郭といった人々は、生きるためには王允たちと戦うしかなくなったのです。

 李傕や郭らは行く先々で軍を集め、10万もの軍勢となって長安に押し寄せました。長安城は10日で破られ、呂布は敗北して逃走します。『三国志1』はその際の惨状について、「李傕らは兵を放って、長安の人々を老若を問わずひっとらえ、彼らを全部殺戮し、死体があたりに散乱した」と記しています。

 司隷校尉の黄琬や王允らクーデターに加わった者たちは皆殺しとなり、王允の屍は市に晒されました。

 侍中の馬宇は隴西の馬騰や韓遂に長安を襲撃させて自分が内応して李傕たちを排除しようと図りますが、失敗して馬騰たちは隴西へ逃げ、馬宇は敗死しました。

 権力を握った李傕や郭ら諸将は、国家のことなど考えず、権力争いに終始しました。彼らは当初は天子を奪い合いましたが、後には利用価値を見いだせずに持て余し気味となったことから、献帝は長安を脱して洛陽へ逃げだしました。

 艱難辛苦の旅の末に、最終的に献帝は曹操の庇護を受けて許昌に移ります。196年のことです。鎮東将軍の曹操は自ら司隷校尉を兼ね、尚書の仕事を行うようになりました。11月には曹操は自ら司空となり、車騎将軍を兼ねます。

 この時点では、諸侯の中で最も強力だったのは袁紹です。劉虞を公孫?が滅ぼし、その公孫?を袁紹が滅ぼしたことで、華北は袁紹が制圧していました。

 しかし、200年9月の官渡の戦いで曹操は袁紹を大敗させ、袁紹が失意の内に死ぬと、3人の息子たちは本来の敵である曹操と戦うのではなく、袁家の後継者の座を巡って内紛を繰り広げることで自滅していくことになります。204年には曹操は袁尚を破り、冀州を平らげて自ら冀州牧を領しました。また、翌年には黒山の賊の張燕が降っています。ここに、河北は曹操の下に統一されたのです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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