2020年07月05日

後漢 董卓暗殺 司徒の王允、尚書僕射の士孫瑞、呂布が中心となって董卓とその一族を皆殺し、新政権のトップには王允が就任する

 董卓は根拠地の郿に堅城を築き、大量の財宝や30年分の食料を溜め込み、「天下を保てなくともここに入ればなんでもできよう」などと嘯く有様でした。

 192年もまた波乱の幕開けでした。正月、袁術の命で襄陽の劉表を攻撃していた孫堅が戦死したのです。孫堅は黄巾の乱鎮圧や涼州の反乱対応で大きな力を発揮した人物ですから、袁術陣営は大きなダメージを受けることになりました。孫堅の長子の孫策は一族を率いて袁術の下へ身を寄せました。

 関東で諸侯どうしが潰し合いをしている中でも、董卓政権は世情の安定化になど務めませんでした。董卓は宴会を行う際に、生きたままの捕虜から舌を引き抜いたり目をえぐったり、四肢を断ったり、熱湯で煮殺したりさせ、周囲の者が青ざめているなかで平然と酒を飲んでいました。関東の兵は、イノシシの油を塗った布を身体に巻いて火をつけ、足から徐々に燃やしていったこともあります。また、袁紹の配下の豫州従事の李延を捕えて煮殺したり、お気に入りの外国人が寵愛を良いことに罪を犯して司隷校尉の趙謙に殺されると、「愛犬が叱責されても腹が立つのだ、まして人間を殺されたとなるとな」といって、鞭で打ち殺させました。

 恐怖政治に怯えた人々の思いは、同年4月に董卓を暗殺する形で結実します。

 暗殺計画の忠臣となったのは、司徒王允、尚書僕射の士孫瑞、そして呂布です。彼らは献帝の病が癒えた祝いに百官が集う際に、まず董卓を斬り、そして一族を皆殺しにしました。董卓の一味と見られた者もまた、獄に送られ、殺されました。主簿の田景などは董卓の遺体に駆け寄ったというだけで殺害されています。

 董卓排除後には、暗殺計画の中心人物だった王允が首班となって新たな政権が生まれます。王允が寛大な政治を行えば、あるいは結果が異なったものとなったかもしれませんが、彼は潔癖主義が過ぎました。王允は董卓と親しかった者を全員粛清しようとしたのです。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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