2020年07月04日

後漢 洛陽破壊 董卓軍が孫堅に敗れたことを受け、董卓は洛陽を焼いて長安へ逃げ戻る 連合軍内では劉虞擁立を巡って対立が深まる

 191年2月、反董卓連合軍側が動きます。すなわち、袁術の支援を受ける孫堅が梁県の陽人に駐屯したのです。

 董卓は大督護の胡軫や騎督の呂布を派遣しました。胡軫と呂布は不仲で、呂布に騙された胡軫は突出したところを孫堅に破れます。孫堅はその後も董卓との戦いを優位に進め、孫堅の進撃に脅威を感じた董卓は洛陽を焼き払い、長安に撤退しました。孫堅は廃墟となった洛陽に入り、皇帝たちの陵墓を修復しました。

 三国志演義ですと、この際に秦から伝えられていた伝国の玉璽を見つけたとされます。伝説によれば、伝国の玉璽は「完璧」の言葉を生み出す契機となった和氏の璧(この逸話については戦国時代に触れておりますので、興味のある方は藺相如1藺相如2藺相如3を御覧ください)

 都市には食料生産機能はありません。そして、廃墟になった都市に食料を運ぶ者もありません。廃墟になった洛陽に留まっても食料不足に陥ってしまうだけで何の益もないため、孫堅は魯陽に撤退しました。

 この際、伍孚が董卓を暗殺しようとしましたが、董卓の膂力にねじ伏せられて失敗、董卓は無事に長安へ戻ります。

 反董卓連合では、このころから勢力争いが激しくなります。その対立がはっきり現れてきたのは袁紹らの劉虞擁立計画で、劉虞を推す袁紹を一方の、それに反対した袁術をもう一方の雄として対立が深まります。4世に渡って3公を輩出した袁一族が新世代のリーダーとされていたことが分かりますね。2人は仲が悪く、袁術は妾腹の子(異なる説もあります)の袁紹を嫌っており、諸侯もまた袁紹、袁術のどちらに付くかという派閥争いに組み込まれていくことになります。

 両者の決別を決定的にしたのは、袁紹が周喁を豫州刺史に任命したことです。その時の豫州刺史は袁術側に立つ孫堅でした。両陣営は豫州を奪い合い、また反董卓連合軍内のリーダー同士が殺し合うなど、連合軍は崩壊していきました。両陣営はこの後、袁家の2人を中心に、各地に割拠して勢力争いに明け暮れるようになります。


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posted by 仲井 智史 at 11:45| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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