2020年05月19日

後漢 梁冀 141年、梁皇后の父の梁商が病に冒されて世を去り、子の梁冀が後を継ぐ それまでの官職で暴虐で何度も法を犯す危険人物だった

 133年、学者の李固は外戚や宦官の専横を上奏します。

 李固幼い頃から学問を好み、長安では有名な存在となっていました。その名を伝え聞いた地方から何度か登用の誘いがありましたが、いずれも拒否しています。132年に上奏したことから順帝の目に止まり議郎となったのでした。外戚からも宦官から睨まれることとなったのですが、順帝は李固らを用いることでバランスをと労組するようになっていきます。その活躍はもう少し後に見ることになるでしょう。

 141年、梁商が病に冒され、跡取りとなる息子に薄葬を命じて世を去ります。息子たちは父の遺言に従おうとしましたが、順帝はそれを許さず、遺体を銀の板で覆う銀鏤、柏の黄色の芯が表に出るようにして作られた棺、銭200万銭などを下賜し、皇后は自らその葬列を見送り、順帝は城門まで出て車騎が去る様を瞻望したそうです。この梁商後継者となったのが、梁冀です。家系をたどると梁統−梁竦−梁雍−梁商−梁冀となります。

 ここで梁冀について述べておきましょう。梁冀は字を伯卓と言い、後漢書によれば「人と為り鳶の肩に豺の目、洞精瞠眄(とうせいとうべん)、口吟舌言、裁(わず)かに書計を能くす」ということで、いかり肩で目が竪く、眼は相手を真っ直ぐに見て、吃音があり、読み書き計算はよくできたそうです。酒好きで、おはじきや双六、蹴鞠、賭博に熱中し、鷹狩りやドッグレース、闘鶏などにのめり込みました。そうした趣味を持っていても別に構いません。しかし、梁冀の問題は、父とは正反対と評しても過言ではないその性格でした。梁冀は黄門侍郎を皮切りに、侍中、虎賁中郎将、越騎と歩兵の校尉、執金吾に転じ、更に136年には河南尹となるなど出世を重ねてきました。職にある間、暴虐で金遣いが荒く、法を犯すことが多かったというのですから、民衆はたまったものではありません。


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posted by 仲井 智史 at 12:36| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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