2020年04月08日

後漢 倭からの使者 光武帝劉秀の死の直前、倭の奴国の使者が奉献する 後漢書に記された倭の習俗について

 遥か異国から朝貢にやってくるということは(少なくとも当時の人々には)皇帝の徳が高いことを意味しますから、光武帝紀にもしっかり「東夷倭奴國王遣使奉献(東の夷である倭の奴国の使者が奉献した)」と記されています。

 倭については、三国志魏志東夷伝倭人の条(広く魏志倭人伝として知られるもの)が有名ですが、この後漢時代に朝貢があったことから、後漢書にも記録が残ります。

 ただ、後漢書は既に述べた通り、三国志よりも成立が後です。そのため書き出しは三国志の記述をなぞっており、新味はありません。ですので、朝貢した部分の記述のみ、『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』から引用しておきましょう。

 建武中元2年(光武帝、57)、倭の奴国が貢を奉じて朝賀した。使人はみずから大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝(後漢第1代、25ー57年在位)は印綬(金印紫綬、滋賀島発見の金印「漢委奴国王」であろう)を賜うた。 安帝(後漢第6代、107ー125在位)の永初元年(107)、倭の国王帥升(師升、倭面土ヤマト説、九州イト説、委面説など)らが、生口160人を献じ、請見(面会を求める)を願うた。 桓(後漢第11代桓帝、157ー67年在位)・霊(同12代霊帝、68ー88在位)の間、倭国が大いに乱れ、かわるがわるたがいに攻伐し、暦年、主がいなかった。1女子がおり、名を卑弥呼といった。年が長じても嫁にゆかず、鬼神の道につかえ、よく妖をもって衆を惑わした。そこで、共に立てて王とした。侍婢は千人。顔を見るような者も少ない。ただ男子1人がおり、飲食を給し、辞語を伝え、居処・宮室・桜観(楼閣)・城柵など、みな兵器をもって守衛し、法俗は厳峻である。(


 この一節に見られるのが、かの有名な金印ですね。その真偽についても実に面白い論争が繰り広げられています。遥か後、日本古代史に至った時に紹介しようと思います。


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posted by 仲井 智史 at 14:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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