2020年04月07日

後漢 図讖とトラブル 桓譯から図讖に従うことを諌められた光武帝劉秀は激怒して桓譯を斬れと命じる

 翌月、劉秀は洛陽に帰ると、元号を建武中元元年と改めました。

 そして、洛陽に明堂、霊台、辟雍を建てました。更に翌年には后土を祭る方丘が作られました。これで、王莽によって完成された礼の施設が洛陽に揃ったことになります。

 霊台を作るに当たって、1つのトラブルがありました。

 封禅の儀が図讖によって決められたことに見られるように、劉秀は讖緯説を重んじました。この図讖を天下に宣布したことで、 国家が正しいと認める緯書を公開するという意味合いが与えられたのです。これから仕官しようとする人々にとって、讖緯説が学ぶべきものとなったのです。

 讖緯は広く信じられていたとは言え、その胡散臭さを感じていた者もいます。給事中の桓譯は文書で劉秀を諌めます。劉秀はいたく不機嫌になりましたが、それでも霊台を建てる際に桓譯へ「図讖で決めようと思うが、そなたはどう思う」と尋ねます。桓譯は暫く黙った後、 「臣は図讖は読みませぬ」と答えました。

 劉秀は重ねて「なぜ図讖を読まぬのか」と聞くと、桓譯は「図讖は正しいものではありません」と直言しました。劉秀は激怒します。そして、「桓譯は聖人を非難し、法を無視している。斬れ」と命じました。桓譯は流血するまで叩頭することで許されましたが、中央から出されて六安に向かう途中、病のために世を去りました。

 私は何も、桀王や紂王のような暗君を紹介しようとしているのではありません。中国史上、最もまともな類の皇帝の事績を記しているだけです。その、まともな皇帝ですらこうした振る舞いをするのですから、君主制の限界を感じずにはいられません。

 漢代において、正月の朝会では特別な儀式である朝賀が開かれていました。朝会儀礼は臣下が貢納物を捧げる朝儀、皇帝から賜与と饗宴が与えられる会儀に分れます。この特別な場には、臣下だけではなく外国の使者も参加します。

 57年正月には、例年とは異なる外国からの使者がやってきていました。海の彼方の奴なる国からの外交使節がはるばる海を超えてやってきたのです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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