2020年04月05日

後漢 匈奴分裂 蝗害や旱害に苦しんだ匈奴は分裂、南匈奴は後漢と結んで北匈奴と対抗し、北匈奴もまた漢との和親を図るが拒否される

 馬援の末子の馬客卿は馬援の後を追うようにして早くに亡くなりましたが、長男の馬廖は羽林の左騎を率いる羽林左監、虎賁中郎将に任じられ、後には衛尉に出世します。一族はその後も故郷の右扶風に残り、後漢末にこの地で猛将を生むことになります。

 さて、51年、大司徒、大司空、大司馬の三公が、司徒、司空、太尉と名称が変更されます。いよいよ、我らが三国時代で見慣れた官位が現れてきましたね。

 もっとも、政治の実務は前漢以来尚書に移っていたため、三公は録尚書事として尚書を兼ねるようになっていきます。3公というと、後漢末の混乱の際に4代に渡って3公を輩出したことをもって袁紹、袁術が中心的な役割を果たすことになるわけですが、3公は名誉職になっていたのですね。

 同年、南北に分裂して孤立化した北匈奴は、逆に後漢と結んで南匈奴を圧迫しようと後漢へ使者を送ります。

 この背景として、北匈奴では日照りや蝗害によって飢饉が発生、民の3分の2が死ぬという危機が発生していたことがあります。朝廷では受けるべきか受けざるべきかで紛糾しましたが、皇太子の劉荘が「北匈奴と和親すれば、南匈奴は背くかもしれません」と意見を述べたことから、沙汰止みとなりました。

 北匈奴はそれでも和親の望みを捨てず、翌年には再び使者を送ってきます。匈奴の弱体化を見た臧宮や馬武は、この機に北匈奴を討つべしと主張しましが、劉秀は許さず、班彪の意見を容れて和親はしないものの、絹帛を贈って懐柔するに留めました。

 52年、かつて皇后だった郭氏が世を去ります。これを機会に、王族やその賓客から多くの者が誅殺される出来事が起こります。

 ことの始まりは、更始帝劉玄の子の劉鯉が、赤眉に擁立されていた劉盆子の兄の劉恭を殺害したことがきっかけです。劉玄は赤眉に降伏しましたが、赤眉は民衆の心が自分たちよりも劉玄に傾いたのを見て、不安になって劉玄を殺してしまったのでしたね。ということは、劉鯉にとって劉盆子や劉恭は親の仇になるわけです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村