2020年04月03日

後漢 馬援の死1 武陵蛮の反乱に建国の功臣の1人である劉尚が派遣されるが敗死、馬援は死に場所を求めてその後任となることを望む

 47年には匈奴との関係を大きく変える出来事が起こります。前漢に降っていた呼韓邪単于の孫で、匈奴の南方と烏桓を領していた日逐王比が単于になれないことを不満に抱いて密かに後漢と好を通じたのです。

 翌年の48年には、日逐王比は祖父と同じ称号、呼韓邪単于と称して後漢に来降しました。こうして匈奴の内部には、南北に分かれて相争う下地ができたのでした。

 同じ48年には武陵の異民族である南郡蛮が背いたため、武威将軍の劉尚が派遣されます。劉尚は来歙とともに隗囂対応に奔走したり、公孫述を滅ぼした蜀遠征にも参加しています。史歆討伐にも派遣されたことは記したとおりです。劉尚は各地で勝利を上げた歴戦の将軍ではありましたが、この南郡蛮の反乱の際には深入りしたために軍は壊滅的な被害を受け、劉尚もまた戦死してしまいます。

 馬援はその後任となることを希望しましたが、劉秀は馬援の62歳という年齢を考え、許可しませんでした。馬援は「臣はまだ鎧をつけたまま乗馬できます」と訴えて、武装して馬上から睥睨したので、劉秀は笑って「矍鑠たるご老人だ」と言い、出陣を許しました。

 出陣にあたって、馬援は友人に「私は厚く遇されてきたが、もう寿命も近く、国のために死ぬことができないことを日々恐れている。今、出陣を許されて安心している。良家の子弟に横やりを入れられないことが望みだ」と言い残しています。彼は死に場所を戦場と決めていたのですね。

 翌49年春、遠征軍は臨郷に至ります。敵は城から出撃して野戦を挑みましたが、百戦錬磨の馬援はこれを邯鄲に一蹴します。反乱軍は散開して竹林へ逃げ込みました。

 馬援たちが追撃して竹林に入ると、道が二手に分かれていました。片方は距離は近いのですが谷が深く、別の道は高低差はなく進軍しやすいのですが遠回りになります。

 名将耿弇の弟、耿舒は遠回りでも進軍しやすいほうが良いだろうと進言しますが、馬援は遠回りして食料を消尽してしまうより、むしろ急進して備えのない敵の喉笛に食らいつけば敵は退くだろうとし、上奏を受けた劉秀もまた耿舒の提案を却下しました。


posted by 仲井 智史 at 13:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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