2020年04月02日

後漢 反乱鎮圧 徴側、徴弐姉妹は斬られても反乱は続き、馬援は3年がかりで反乱を鎮圧すると治水などインフラ整備まで実行し、帰還する

 また、軍には疫病が蔓延し、楼船将軍段志が病死するなど苦しみます。それでも進軍を続けてついに反乱軍を捕捉すると、戦って勝利を得、数万の人々の降伏を受けましたが、徴側、徴弐の姉妹は軍を分散させて逃げてしまいます。

 翌43年、皇太子劉彊が廃されます。彼は郭皇后との間の子で、母親が皇后を廃されたことから大変に不安定な立場に置かれていました。それを自覚していた劉彊はかねてから皇太子を辞めたいと願っていましたので、劉秀は喜んでか渋々かは分かりませんが、その願いを叶えたことになります。

 次の皇太子となったのは、寵愛する陰麗華との間に生まれた劉陽です。この時、名が「陽」のままだと諱の風習で将来大変になることから、名を「荘」に改めています。

 同年にはまたもや怪しげな宗教団体を率いる傅鎮が反乱を起こし、現在の河南省にある原武を占領します。こちらには臧宮が派遣され、4月には拠点を陥落させて傅鎮を斬りました。臧宮も、蜀に河南にと忙しいですね。

 同じく4月、馬援はベトナム深くまで追撃して、最終的に姉妹を捕らえ、誅殺しました。その首は洛陽へ送られたのですが、これで反乱鎮圧とはなりませんでした。まだ反乱の残党が各地に残っていたのです。引き続き、馬援は南方での作戦を継続するしかありませんでした。その戦力は楼船2000余艘、兵士2万人余ということで、かなりの大軍ですから、反乱はそれなりの規模で続いたことになります。

 馬援は作戦を継続し、鎮圧に成功しました。一連の鎮圧作戦により、5000人が捕斬されたとのことです。

 反乱を鎮圧すると、馬援は優れた行政官としての腕を発揮します。毀たれた城郭を修復し、用水路をほって灌漑を行って民衆の生活を豊かにしました。越の法律のうち、後漢の法律と食い違いのある条文10余りを列記して上奏し、越の人々と旧来の制度を確認して、それが保たれるように約束しました。越の人々は馬援を讃えたというのもわかります。

 馬援が帰国したのは、44年の秋のことでした。41年に遠征に出ていますので、3年ほども戦い続けたことになります。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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