2020年03月27日

後漢 厳罰化論議1 2000年前からあった厳罰化論議 厳罰化に反対した杜林について

 ちなみに、厳罰主義には量刑を重くするものと犯罪の範囲を広げるものがあります。この提言は前者の刑の重さがなくなったことに対して、後者の罪の範囲を広げることでバランスを取ろうとするものです。

 これに反対したのが杜林です。

 杜林の父の杜鄴は前漢の成帝、哀帝の時代に涼州刺史を務めており、杜林は若い頃から学問に励んで博識で知られました。新末の動乱の際、孟冀らと共に女性や子供を連れているところを賊に囲まれたことがあります。賊たちは杜林らの身ぐるみ剥いだ後、刀を突きつけて殺そうとしました。この時、孟冀が「1つ言ってから死にたい。将軍は天が行う道を知っているか。赤眉はかつて100万もの兵を抱え、向かうところ敵はいなかったが、仁が無かった故に最後は滅んだ。将軍は今、たった数千の衆を率いて天下の覇者たらんとしているというのに、仁恩を施さずに赤眉の失敗をなぞっている。天を恐れないのか」と言って、難を逃れています。

 隗囂がこの杜林のことを聞き及び、杜林を招聘して持書平としましたが、一度は仕官した杜林は隗囂を見限り、病気を理由に故郷に帰ろうとします。隗囂は強いて引き止めましたが、やがて杜林の弟の杜成が亡くなったため、その喪に服すると言って官を辞し、東方に帰ります。

 配下にならないのであれば、有能な人間はむしろ害になります。隗囂は刺客を送り杜林を殺させようとしましたが、刺客は杜林が自ら手押しの一輪車(鹿車)に弟の遺体を載せて運んでいる姿を見て、「昨今、義を行う者はほとんどおらぬ。俺はつまらぬ人間だが、義士を殺すことはできん」と言って、任務を果たさず逃げたため、杜林は難を逃れました。

 面白いことに、西洋では一輪車は遥か後まで使われませんが、中国では古くから一輪車が使われていました。持ち手や荷物を乗せる籠の形状に様々なものがあったことが知られています。

 劉秀は杜林のことを聞き、召し出して経書や故事、西方についてのことを尋ね、非常に喜んで重く用いていました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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