2020年02月19日

後漢 公孫述 蜀の公孫述、漢の将を自称する盗賊たちの狼藉を見て、自らも将軍と偽って賊を斬り、蜀で自立 国号を成家とし、3公を置く

 4月、蜀では公孫述が王を称します。

 公孫述は父の公孫仁が成帝の侍御史だった縁で郎となったことをきっかけに役人の道を歩み始めました。公孫述は並外れた能力の持ち主だったようで、父親が教育のために派遣した者は「公孫述は教えを受けなければならないような者ではない」と帰ってきたですとか、能力を見込んだ太守から5県を兼務させられても仕事に滞りはなく、鬼神と称されたそうです。新では蜀の太守(新の制度では卒正)となっていました。

 新末からの混乱に乗じて、四川では漢の将を自称する宗成と王岑が挙兵します。公孫述は蜀の豪族を集めて、自分は輔漢将軍と蜀郡太守兼益州牧に任じられたと言うと、宗成らを討って蜀で自立したのでした。

 劉玄は巴蜀を手中に収めるべく、軍を送ります。しかし、公孫述は綿竹で劉玄の軍を破りました。そして、4月に蜀王を称し、国号を成家(首都が成都のことから)と定めました。更に、25年には天子を名乗り、大司馬、大司徒、大司空の3公を置き、元号も龍興と改めました。そして、黄色を尊んだ新に代わる王朝として、色は白を尊ぶことにしました。

 25年、劉玄の力が削がれる出来事が起こります。劉秀とは別に河北へ派遣していた謝躬の軍が失われたのです。

 謝躬は劉秀と共に邯鄲を攻めた際、麾下の軍が邯鄲を略奪したことから劉秀に嫌われていました。劉秀は謝躬と陣を別に分けたほどです。ただ、露骨に敵視することは、劉秀にとっても大変なリスクになりかねません。そこで、劉秀は謝躬の勤労ぶりを讃えることで懐柔していきました。

 邯鄲攻略後、しばらくして謝躬は手勢数万を率いて?に戻ります。ここでも謝躬の軍は狼藉を働いたようで、民衆はその横暴に苦しみました。

 劉秀は一計を案じます。そして、「私は南方の反乱勢力を謝犬(河南省)に追い込み、必ずや勝利します。そうすれば、近隣の賊は驚いて逃げるでしょうから、そこを貴方の軍で攻撃すれば、散り散りになって逃げた敵は必ずや捕虜となるでしょう」と伝えました。謝躬はその作戦に賛同します。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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