2020年02月17日

後漢 銅馬集団 河北には赤眉とは別に多くの農民反乱が起こっており、劉秀はその最大の勢力である銅馬集団を破り、勢力を拡大する

 劉秀は耿弇が正しいと認め、帰還を拒否しました。かつて兄の劉縯が宛を落とすという大功を立てたながら、劉玄に処刑された記憶は生々しかったでしょうから、当然のことでしょう。

 そしてまた、実際問題として河北は落ち着いたわけではありませんでした。まだ各地に蜂起した集団が残っていたのです。

 秋、劉秀は河北の農民反乱軍のうち最大の規模を誇った銅馬集団を攻撃します。

 劉秀は敵と対峙してもなかなか攻撃を仕掛けず、逆に攻撃を受けても陣地を固く守って討って出ませんでした。そして銅馬集団から略奪に出る者があればこれを攻撃したり、糧道を断ったりし、勝利をあげました。

 その他の集団にも攻撃をしかけ、勝利します。降伏した集団の指導者は列侯に封じ、兵士は軍に組み入れることで、劉秀の勢力は数十万人に膨れ上がりました。

 関中では劉秀を銅馬帝と呼んだそうです。『秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生』はその理由について、「それはかれが銅馬集団を併わせて大勢力となったことを示すとともに、関中のひとから見れば、劉秀は銅馬集団をはじめとする農民反乱集団の統率者たちに推戴されていると理解したからであろう」とまとめています。

 河北は落ち着きましたが、長安ではまた新たな火種が撒かれようとしていました。赤眉の離反です。

 前述の通り、更始帝政権で重用されるのは緑林系でした。赤眉が合流したのが後だったことを考えれば、ある程度の人事の偏りは仕方がなかったところもあるのでしょう。それに加えて、天下がまだ定まってもいない中で劉玄が酒と女にうつつを抜かすことに、赤眉は不満を爆発させたのです。加えて、赤眉は東方にその出身がありましたから、長安に都して東方を見捨てたように見える劉玄政権には魅力を感じなかったのでしょう。

 秋、赤眉は他の農民反乱軍と集会を開きます。その後の動きを見れば、集会ではその後の行動が議論されたようです。

秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生
秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村