2020年02月15日

後漢 王朗誅殺 劉秀たちは鉅鹿を囲むが落とせず、直接邯鄲を衝く 名将耿弇や劉玄の派遣した謝躬らも共に攻撃、落城し王朗は誅殺される

 呉漢は王朗と比べて劉秀が圧倒的に優れていると確信し、王朗は劉一族を名乗っているがそれは嘘だと(ここまでは正しい)主張をし続いて皆劉秀に付いていると嘘を吹聴して彭寵に劉秀に付くよう主張しました。また、蓋延も、呉漢に同調して劉秀を推したことが流を決めました。
劉秀は更に更始帝劉玄からの援軍も得て、遂に東に向かって鉅鹿を囲みます。

 鉅鹿と言えば、項羽が章邯の率いる秦軍を破って、守勢から攻勢へ転換するきっかけとなった戦いのあった場所でしたね。当時、趙軍が秦軍の包囲に耐え続けた鉅鹿は、今回も王朗の将により固く守られ、城は1ヶ月以上たっても落とせませんでした。

 王朗は更に援軍を送ったのですが、こちらは劉秀に迎撃され、数千のを失う敗北を喫しています。

 ここで劉秀は方針を変え、鉅鹿ではなく直接邯鄲を衝くことにします。

 ところが、彼らのもとへ2つの郡が王朗のために兵を発し、こちらに向かってくるとの情報が飛び込んできます。兵士たちは恐れおののいたのですが、なんと、これは薊で別れた耿弇が率いてきた、劉秀の援軍でした。このときまでに涿郡(後に劉備が生まれ育つところですね)など22県を落とし、王朗の将軍、重臣、高級士官ら400人余りの他に3万の首を斬り、印綬125、節2を得るという大戦果を挙げていました。

 耿弇に加え、劉玄から援軍として更始帝政権で尚書令に任命されていた謝躬もまた、邯鄲攻撃に参加します。

 4月、劉秀は邯鄲を囲むと、翌月には城を落とし、王朗を誅殺しました。なお、王朗を擁立した劉林については史書に記載がなく、誅殺されたのか、はたまた劉秀に降って生き延びたのか、まったく分かりません。

 この時、謝躬の軍は邯鄲城内で略奪を働いたことから、劉秀に嫌われています。

 城を接収すると、多くの文書類もまた劉秀の手に落ちます。その中には、役人や民衆が劉秀を誹謗する文書も多く含まれていました。当然、彼らは戦々恐々です。そこで劉秀は、諸将軍を集めると、「不安に感じている者たちよ、安心せよ」というと、彼らの目の前で文書類を焼いてしまいました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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