2020年02月10日

後漢 新の滅亡 宛に続いて洛陽を手に入れた劉玄は都を洛陽に移す 各地で起こった反乱は関中にも波及し、戦乱の中で王莽は殺され新は滅ぶ

 隗囂は声望があり、また書をよく読むことから、一族に推戴され、望まずして反乱のリーダーとなってしまいました。隗囂は漢復という、どうみても漢の復興を狙う元号を定め、同時に各地へ反王莽の檄を飛ばしました。

 これに応じて各地で反王莽の動きがでます。

 9月、劉玄は緑林のリーダーの1人だった王匡を派遣して洛陽を攻撃させます。大変ややこしいことに、洛陽を守るのは王莽の一族の王匡と、讖緯をでっち上げた哀章でした。

 新の王匡は先に見た通り、兵の無秩序な略奪を許し、疲労を無視した強引な進軍の挙げ句に負けると真っ先に逃げ出した人物ですし、哀章は王莽に阿って天帝と高祖劉邦が王莽が天子となることを認めたという偽文書をでっち上げたことだけが功績の人物です。

 王莽に、「皇帝の時代に私と同じ地位にあった中黄直が蚩尤を撃ち殺しました。私を山東平定に赴かせてください」と願って東方へ来ていました。

 洛陽の防衛は、この甚だ頼りない2名に委ねられていたのですね。

 王匡が王匡を攻めた戦いは王匡の勝利に終わりました。……何が何やら分かりませんね。

 洛陽は陥落し、王匡(新)と哀章は王匡(更始)に降伏します。両名は王匡(更始)によって宛に送られ、その地で処刑されました。劉玄は戦後処理を終えると、都を洛陽に移します。

 この時期、赤眉は劉玄の即位により、かねて願っていた漢の復興が成ったとして劉玄の招きに応じ、合流しています。赤眉の指導者20人余りは列侯に封じられてました。

 劉玄は洛陽を王匡に攻撃させるのと並行して、南陽から関中へのルートを塞ぐ武関へも軍を派遣しています。

 既に、南郷で反王莽に立ち上がった勢力が武関を落としていました。そのため、劉玄の軍は武関を攻略することなく通過し、関中へと雪崩込みました。

 武関を通過すれば、もう長安は指呼の間です。こうなると、関中の人々にも勝ち馬に乗る心理が働き、関中でも反乱が起こります。反乱軍は城壁を破って城内へ突入します。王莽の近侍の必死の抵抗も虚しく、王莽は混乱の中で刺殺され、新はわずか1代で滅びました。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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