2020年01月30日

新 長安攻防 クーデター計画こそ潰したものの、反乱軍は長安に至り、激戦の末に城門は破られて王莽は未央宮の漸台へ向かう

 というのも、劉歆はこの頃、劉秀と名前を変えていたため、西門君恵の予言「劉秀という人物が王莽の天下をひっくり返し漢を復興するだろう」は彼を指した予言だと受け止められたのです。

 また、劉歆は息子が王莽に処刑されたことから、王莽を恨んでいましたので、陰謀に参加する理由があったのです。

 クーデター計画は練られていきましたが、董忠の部下が密告したことから陰謀は露見します。董忠は斬られ、劉?と王渉は毒を仰いで自ら命を絶ちました。

 足元の火花を大火にしないことには成功した王莽でしたが、外側から新を焼き尽くそうとする炎は燃え盛るばかりでした。

 隗囂の檄文に呼応し、各地で新からの独立が進んだことは記しましたね。南郷(河南)でも檄文に応じて反乱が起こります。そして、関中を扼する武関を落としたのです。彼らの協力の下、武関から劉玄の派遣軍が関中に雪崩込みました。それを知った関中の豪族たちは漢の将軍を名乗って反乱に呼応したのです。

 王莽も手をこまねいて事態を眺めていたわけではありません。周礼や春秋左氏伝に、国家の大事は哭礼で回避するとあるのを受け、気絶するまで天に哭しました。

 ……ここまで来ると滑稽ですね。

 もちろん、神頼みだけが王莽の採った手段ではありません。9人の将軍を9虎と称して反乱軍を攻撃させます。しかし、そのうち6虎はたちまち敗走します。そこで、囚人や徒刑者にブタの血を啜らせ、新に背けば冥界の鬼が知ることになると脅して出撃させます。

 讖緯説を信じる王莽の考えでは兵士は死後の世界で受ける苦しみを理由に命令に背くことなど無いはずだったのですが、実際には即席の兵士たちは渭水の橋を渡ると遁走してしまいました。

 反乱軍は遂に長安に至ると、長安城の攻撃に先立ち王一族の墓を焼きました。

 そして長安城を囲むと、9月1日に城門を破って城内への侵入に成功します。翌日、宮城の一部に火が放たれます。王莽は宣室に退避し、更にその翌日の3日には未央宮の漸台へ向かいました。ここは周囲を池に囲まれているため、包囲できないのです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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