2020年01月28日

新 劉玄起つ 前漢の景帝に連なる南陽劉氏の一員で、遊侠を好んだ劉玄、反乱に呼応する

 莒といえば、戦国時代の後半に燕が諸国の連合軍を率いて斉を攻撃した際、70余城を落として斉を絶体絶命の危機に追いやった際にも即墨と共に徹底抗戦を続けた街でしたね。今回もまた莒は徹底抗戦を続け、赤眉軍は落とすことができませんでした。

 そこで、赤眉は莒攻略を後回しにし、東南に向かって東海郡に入ります。しかし、東海郡の守兵と戦って、数千人を失う敗北し、今度は西の豫州に向かいました。

 一方の緑林は22年に疫病で勢力の半数を失いました。動揺したのか食料を始めとする物資を得るためか、緑林軍は成丹、王常らの下江の勢力と王匡、王鳳らの新市の勢力に分かれます。

 赤眉の敗北も緑林の疫病と分裂も、新たな反乱を抑止することはありませんでした。同じく後22年7月、平林でも反乱に呼応して挙兵した人々がいます。その中に、劉玄、字は聖公なる、南陽劉氏に連なる人物がいました。

 南陽劉氏とは、景帝の子で長沙王だった劉発の子に当たる劉買が舂陵に封じられたのが始まりです。南陽劉氏は現地の有力者と通婚することで、地方豪族となっていました。

 劉玄はかねてから遊侠を好み、多くの客を抱えていました。ところが、賓客が法を犯したことから、劉玄も平林に逃げて、その後は世間から隠れて生活していた時に反乱に遭遇しています。出自や遊侠との付き合いを背景に、劉玄は平林の集団のトップとなります。

 10月には、同じく南陽劉氏に連なる劉?が陵で挙兵し、同時に劉?は弟の劉秀に宛で現地の豪族李通らと挙兵させます。また、姉の夫のケ晨も新野で挙兵しました。

 南陽劉氏の反乱軍は緑林の徒と合流、23年には新軍を撃破し、2月には劉玄が皇帝を名乗りました。これが更始帝です。更に5月には宛を落とすなど、着々と勢力を強めていきました。

 特に、宛奪還に向けて送り出した総勢42万という空前絶後の大軍団が、劉?の弟の劉秀がわずか1万足らずで守る昆陽で大敗を喫したことは、新の運命を決定づけます。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村