2020年01月23日

新 西方諸国の離脱 遠征軍は戦いを始める前に崩壊、屍が虚しく野に散らばる 匈奴攻撃と同時期に行われた高句麗遠征の顛末

 果たして、兵士たちは食料不足から西方までは行ったものの出撃はできず、戦いが起こる前に病で次々に死者が出て、虚しく荒野に屍を晒すという惨状を呈しました。そして、高句麗は王莽の要請を無視して軍を動かしませんでした。

 新の体たらくを見た西域諸国は新から離反します。そのうち、カラシャールは挙兵して西域都護を殺しました。王莽は新たに西域都護を派遣したのですが、これもカラシャールに殺されてしまいます。新がこの狼藉に対処できなかったことを見た西域諸国は、全て新から離脱しました。

 外征は西方だけではありません。匈奴攻撃がまだ撤回されるより前に、王莽は高句麗征伐の軍を送っていました。

 高句麗は漢王朝末期に外藩となっていたため、新からの要請があれば出兵する義務を負っていたにも関わらず、前述の通り高句麗が無視したことが大義名分となりました。いえ、高句麗はそれどころか、中国の北東部に侵入して遼西の太守を攻殺する始末です。

 新軍はこちらでは強さを見せ、高句麗王の騶は討たれて首は長安に運ばれました。王莽は高句麗の名称を下句麗と変えています。ただ、このブログでは王莽の独りよがりで幼稚なことには付き合いたくないので、このまま高句麗と表記を続けます。

 高句麗は勢力を後退させましたが、新に屈することはなく、反乱は継続されました。

 対外戦だけを見れば1勝1敗ではありますが、西方では西域諸国の服属を丸々失ったわけですから、新のダメージは大きなものでした。

 後13年、不本意ながらも漢王朝簒奪への道を拓くことになった王太后が死去ます。84歳でしたから、年齢的には大往生と言えるでしょう。もっとも、彼女は全く望むことのなかった漢の滅亡を、それも自分の一族が滅ぼす姿を見てからは楽しめなかったようで、幸せな晩年ではありませんでした。

 王太后は夫の元帝が眠る渭陵に葬られます。

 ところが、漢王朝と王太后の関係を断ち切ろうとした王莽は、わざわざ墳丘を別にし、元帝の墳丘との間に溝を設けるほどでした。儒家で復古主義者の王莽に、伯母の願いを無視するどのような古代の例があり、儒教のどのような教えに合致するのか聞いてみたくなります。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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