2020年01月14日

新 反王莽の動き 王莽は皇帝と同じしきたりで職務や祭祀を行うように為る 後6年、南陽郡で小規模反乱が起こるが鎮圧される

 同月、王莽は宣帝の玄孫のうち最年少である2歳の劉嬰を立てました。

 皇帝が若く無能であればあるほど、漢王朝には不利に働きますが、王莽は権力を壟断できます。そして、王莽のさらなる野心を満たすには、この状況こそが望むものでした。

 王莽は、職務や祭祀はすべて皇帝と同じしきたりで行うようになりました。

 誰もがみな、王莽の専権を快く思ったわけではありません。その不満が最初に爆発したのは後6年のことで、南陽郡の安衆侯の劉崇らが、手勢100余人で南陽郡の大都である宛を攻撃します。宛を押さえれば長安まで近いことから打倒王莽も夢ではなかったかも知れませんが、100余人では宛を抜くことはできず、反乱は失敗に終わります。

 なお、この反乱の後始末において、宗室劉氏に連なる者であっても参加者は処刑されていますが、7歳以下であれば刑に処されることはなかったようです。幼少だったために助けられた劉隆は、後に遠縁の南陽劉氏の反乱に参加しています。

 また、同じ反乱の後始末の過程で、群臣たちは反乱は王莽の権力が軽かったためで、より立場を重くして天下を鎮撫すべきと上奏しました。王太后は王莽に、上奏する際には仮皇帝を名乗らせることと決め、他の者には摂皇帝と呼ばせるようになります。

 同年、西羌へ遠征軍が送られます。

 これより前、西羌の一部有力者は後4年に王莽から送られた使者の説得に応じ、多額の金を受け取って帰順していました。漢はそこに西海郡を設置しています。ところが、後6年になって、また別の西羌の有力者たちは西海郡の郡都を攻撃し、太守の程永は逃亡する、といったことが起こります。王莽は程永を処刑し、護羌校尉の竇況を派遣して西羌を攻撃させたのです。

 翌7年、董況は西羌を破り、西海郡を回復します。

 王莽は西海郡へ出兵するのと並行して、貨幣改革も主導しました。それまで5銖銭だけだったのに対し、高額取引のための花柄を追加したのです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村