2020年01月10日

新 祭祀改革 王莽は劉一族で儒学者として知られる劉歆らを登用し、祭祀の改革を図る 新は短命に終わるが、王莽の定めた祭祀は時代を超えて残る

 また、古い制度にあった太師、太保、太博、少博を設置して、王莽がこれを統括することになります。大司馬という政府の最高権力を握ると同時に、皇帝へつながる情報ルートも押さえたのです。王莽が権力につながるあらゆる地位を占めたわけですね。

 幼帝を擁して他の有力者を排除した王莽は、儒学者として知られる劉歆らを登用し、改革に着手しました。

 例えば、古礼に天子の廟は7つと書かれているため、漢の廟も7つにしようと7の議論がありました。7廟制は成帝の代から議論が重ねられてきたのですが、なにせ、どの皇帝を祀り、どの皇帝を祀りから除くのかは大変な問題ですから、揉めに揉め、いつまでも結論が出ていませんでした。最終的にどうするかを定めたのは王莽で、高祖劉邦、文帝、宣帝、武帝、元帝、成帝、哀帝の7人の皇帝が祀られました。

 これはまだ古礼に則っているから、誰を選ぶかさえ決めてしまえば良いのですが、難しいのは上帝と后土を祀る郊祀制でした。なにせ、これは武帝が定めたもので、儒教には合致しないのです。

 成帝の時代には儒家官僚が多数を占めていたこともあり、改革に関する建議は多数決で可決され、祭壇は長安の北と南に移されました。南北の郊外で祀ることから南北郊祀と呼ばれます。

 しかし、南北郊祀は大風で大木が倒されたことなどを凶兆とされて旧に復され、その後で成帝が急死すると戻しても効果がないということで再び南北郊祀が採用されましたが、哀帝が病弱だったためにまたもや元に戻す、と迷走します。5年、王莽の建議により南北合祀が行われ、以後は定着しました。?以後、南北郊祀は清朝まで続くことになります。

 天子の威光やら教化やらを発する明堂を長安に建設するということも王莽が端緒です。後漢の光武帝は洛陽に明堂を建設しています。皮肉なことに、王莽が定めたものが王莽を敵視した後漢王朝においても受け継がれ、継承され続けたのです。

 祭祀に関する改革を見る限り、王莽の改革はそれなりに優れたものだった、と結論づけるべきでしょう。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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