2019年10月26日

漢武帝 武帝の死 前87年、後継者として8歳の劉弗陵を定め、武帝は世を去る 劉弗陵が定位を継いだ背景と、野心家劉旦について

 武帝の後宮には7、8000人の女性がいたとされますが、そのうち男児は6人しかいませんでした。

 劉拠が死んだことで、武帝の男児の中で最年長となったのは燕王劉旦です。彼が自分が次の皇太子であると考えるのは、極めて自然な流れだったことでしょう。劉旦は学問もすれば狩りもするという、文武に関心を持つ人物でした。そして、野心もあったということですね。

 しかし、劉旦が父の武帝に、長安で警備に当たりたいと願い出る(武帝の傍にいて、何かあった場合に備えたい)と願い出ると、武帝は激怒します。そして、劉旦の送った使者を獄に下し、遊説の士を好んだ劉旦が亡命者を匿ったことを理由に燕の3県を削りました。

 前87年正月、李広利の甥の昌邑王劉髆が亡くなり、更にその翌月に武帝が死去します。皇太子が決められたのは、その死の前々日のことでした。

 劉髆と武帝の死は余りにも近すぎる気がしますね。李広利の匈奴降伏とその一族の誅殺はほんの数年前の話ですから、12歳の若さだった劉?の死は、後継者争いを防ぐことを意図してなされたものかもしれません。

 ほんの少し、武帝が世を去る直前に時計の針を戻します。

 先に触れた武帝の6人の男児を見てみましょう。巫蠱の乱で死んだ劉拠、若くして死んだ斉王劉閎(りゅうこう)、そして昌邑王劉髆の3皇子は既に世を去り、残っているのは武帝の不興を買ってしまった燕王劉旦、劉旦の同腹の弟の広陵王劉胥、そして末子の劉弗陵の3人です。

 このうち、後継者に選ばれたのは末子の劉弗陵でした。劉弗陵は8歳のお子様です。どう考えても大帝国を率いることはできません。劉旦に対する武帝の怒りは続いていたようですね。

 武帝の気性の激しさが伝わってくる話です。いえ、武帝の冷酷さはこれだけに留まりません。なんと、劉弗陵の母の趙婕、は、武帝死後に外戚として呂后と同様な専横を行うことを防ぐため、予防措置で殺されてしまったのです。

 この劉弗陵が昭帝として知られる皇帝です。

 武帝について随分と長く見てきたので、ここで項を改めることと致します。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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