2019年10月23日

漢武帝 武帝の後悔 田千秋という老人の諫言を受けた武帝は皇太子を失ったことを悔やみ、息子の廟を建てて涙を流す

 さて、巫蠱の禍という一時の騒乱が終わって落ち着いてみると、武帝にも劉拠が反乱を起こしたとは思えないようになっていきます。そこにやってきたのが、秦に滅ぼされた斉の王族を出自にもつ田千秋なる身の丈8尺(184cm)もある老人です。彼は武帝に「子どもが父親の武器で遊べば、その罪はムチ打ちに当たります。天子の子が誤って人を殺したのなら、どのような罪となるでしょうか」と言って、武帝に劉拠の無実を訴えました。その理屈はどうなのかと思わずにはいられません。しかし、武帝はこの言葉を是としました。

 田千秋の言葉が正しかったというより、武帝が後悔して自分の意見を撤回する機会を探していた、ということなのでしょうね。武帝は「高祖(劉邦)の神霊が私に教えてくれようとしたことだ」と言うと、直ちに田千秋を大鴻臚に任命しました。

 大鴻臚とは周辺の異民族を統括する役職です。強引に現代風に言えば外務大臣のような位置づけでしょう。このような地位へ、外交ではなく皇太子の反乱についてたった一言述べただけの人物を据えるのは問題だと思われます。ただ、田千秋は巫蠱の取り調べを諌めることに関しては、他の丞相よりもマシだったそうです。

 皇太子劉拠が無実だったとなれば、罰されるべきは彼を反乱に追いやった者共です。武帝は江充の一族を滅ぼしました。江充の野心は、皇太子一家と自分の一族を滅ぼす結果となったのでした。また、江充の取り調べに同行した宦官の蘇文は焼き殺されました。

 武帝は涙を流し、劉拠の最期の地となった思子宮を建てて我が子を悼んだそうです。

 江充のような酷吏を重用し、巫蠱の獄で多くの者の命を奪い、劉拠に対して即座に鎮圧を命じておいて何を言っているのかという気がしますが。

 前90年、匈奴が上谷、五原に侵入して役人や民衆を殺し、更に五原、酒泉を攻撃して都尉を殺害します。武帝は再び李広利を将に7万の騎兵を送り、匈奴を攻撃させることとしました。また、西河や酒泉にも軍を派遣しています。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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