2019年10月20日

漢武帝 史記の結び 麒麟を捕らえたことを記して司馬遷は史記をかきあげたとしているが、これは春秋の結びと同じ 武帝への批判が込められた

 任安のように明確な罪がある(私には彼はなすべきことをやったように見えますが)者のだけではなく、劉拠の寵愛を受けていた者たちには皆死刑判決が下ります。その中に張湯の息子の張賀の名前もありましたが、兄で衛将軍となっていた張安世が除名を願ったため、宮刑を受けて生き延びています。

 さて、巫蠱の乱はこうして収束したわけですが、皇太子を失うなど、漢に残したダメージは小さなものではありませんでした。

 前91年、史記は武帝が祭事を行ったことを記したあと、遅まきながら方士の法螺に倦んできましたが、それでも方士との関係は切らなかった(効果はなかった)と記し、筆を置いています。

 少なくとも現在に残る史記を見るとそうなっているのですが、司馬遷自身は「上は黄帝から、下は獲麟に至るまで」記録したと太史公自序に記しています。獲麟とあるのは、前95年(武帝の太始2年)に隴首において白麟を得たという出来事を指します。

 これは大変な問題を孕んでいます。過去、全く同じように、瑞祥があったことを記して筆を置いた人物がいましたね。伝説に、孔丘が春秋を書き終えることになったのは、とても名君とは言えない哀公の時代に麒麟が捕らえられたことに絶望してのことでした。孔子に仮託して武帝を批判していることになりますね。

 『十八史略で読む『史記』: 始皇帝・項羽と劉邦 (漢文ライブラリー)』は以下のように指摘しています。

春秋公羊学を修めている司馬遷が、獲麟で筆を擱いたのであれば、司馬遷は漢の滅亡を予感し、孔子の『春秋』と同じように『太史公書』を後世に遺し、乱をおさめるための法を描いて、後王にそれを残そうとしたことになる。


 麒麟の捕獲をきっかけに筆を置くだけではありません。太史公自序において、司馬遷は太史公書が亡失しないように原本を山に蔵して「後世の聖人・君主を俟つ」としています。春秋公羊伝は「春秋を制し以って後聖・君子を俟つ」と、ほぼ同一の言葉ですから、これを意識しなかったはずがありません。武帝に対してかなり批判的であったことが見て取れ十八史略で読む『史記』: 始皇帝・項羽と劉邦 (漢文ライブラリー)
十八史略で読む『史記』: 始皇帝・項羽と劉邦 (漢文ライブラリー)ますね。




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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 漢武帝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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