2019年08月17日

前漢 呉楚7国の乱6 斉を包囲していた諸侯軍も敗れ、反乱は鎮圧される 戦後処理として、諸侯王の強大な権限は削減された

 春秋時代に「呉越同舟」などという言葉が生まれたほど仲の悪かった呉と越が同盟というのは面白いめぐり合わせです。

 劉濞は越と合流して戦力を立て直すつもりでしたが、越は既に漢と結んでいました。安堵も束の間、呉王劉濞は捕らえられ、処刑されてしまったのです。挙兵からわずか2ヶ月後のことでした。劉?に付き従った兵士たちは次々に降伏し、楚王は自殺しました。

 呉楚連合軍を破った漢軍は斉へ向かいます。膠西王たちの攻囲に、斉はまだ耐え続けていました。呉軍を破った漢軍が押し寄せてくるとの情報が入ると、膠西王たちは包囲を解いて国に戻りました。腹背に敵を迎えるようなことになれば敗北は必至ですからね。

 しかし、集団でも斉を抜くことが出来なかった諸侯がばらばらに国に帰っても、各個撃破されるだけです。攻撃を受けた諸侯たちは次々と自殺し、ただ趙王だけは漢軍に抵抗し続けました。反乱は実質この時点で鎮圧されたと言えるでしょう。反乱開始からここまで、たった3ヶ月しかかかりませんでした。漢の天下を揺るがすほどの大反乱にしては、呆気ない幕切れですね。

 なお、趙はこの後も暫く抵抗し続けたのですが、10ヶ月後に酈寄に敗れ、趙王は自殺して果てることになります。

 この後、中央では諸侯王に対する警戒心が高まり、諸侯王から実権を奪って中央の統制を強めていくことになりました。

 例えば、諸侯王の抱える官吏の定員は削減され、代わって中央政府から送られる官吏が増えました。官吏の人事権を中央が持つということは、彼らは中央の指示に従って動く、ということです。加えて、領地の中であっても軍を勝手に動かすことは許されなくなり、中央からの割符に従わなければならなくなりました。

 更に、諸侯王の立場が皇帝よりも下であるとはっきり示すため、部下の役職名もまた変更されます。丞相が相に改められたことを始め、御士大夫や廷尉など中央政府と同じ名前の官名は許されなくなったのです。

 諸侯王は手駒を奪われ、監視が厳しくなり、名目すら失ったのです。租税が与えられることは続きましたが、統治者としての立場は失ったのですね。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 前漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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