2019年05月21日

前漢 漢の支配体制2 秦の支配体制を引き継いだ漢、法三章は夢のまた夢

 こうした背景があったためか、あるいは劉邦が項羽の楚と異なる体制を取ろうとしたのか、漢は法体制も含め基本的に秦の体制を引き継ぐことになったわけです。『項羽と劉邦の時代 (講談社選書メチエ)』はいつ、どのようなシステム導入したかについて、こう記します。なお、引用文中に見える2年は呂后の2年のことです。

 漢王が、秦の社会システムを採用すると宣言した時期はわかっている。それは漢2年2月に「漢の社稷」を建てたときである。そのとき漢は、秦と同じ暦法(せんぎょく暦)や、中央官制の名称、郡県制のシステム、法律や文書行政などを採用したらしい。それが秦の制度を継承することは、張家山漢簡『二年律令』の律令などによって、あらためて確認されるようになった。


 とはいえ、一定以上の条件で漢に加わった有力者を万戸侯に封じているように、成立当初から秦が採用した厳格な郡県制は採用していません。 法三章から漢は秦とは異なり寛大な政治をしたのではないかと思われるかもしれませんが、実際には秦の厳しさを引き継いでいます。

 それを如実に示す証拠が発見されています。皇帝陵である陽陵西北1.5メートルの地で、29の墓から35体の刑具をつけたままの白骨が発見されました。漢代文化層の下に埋められていることから、前漢のものと推測されています。この白骨の模様を『古代中国の刑罰―髑髏が語るもの (中公新書)』から引用します。

 仰向けに体を伸ばし、首から上、頭部は左足の横にころがっており、その首には、円形で一点から鉄棒がのびている首枷がつけられたまま残っているという状態でした。首枷は労働刑に処されたものです。最終的に斬首刑に処されたものと見られるわけですが、斬首の際に首枷は邪魔だったのではないかと上掲書は指摘しています。

 これを見ても過酷な刑罰が行われていたことははっきりします。後の文帝の時代に刑罰の姿は大きく変わっていく姿を見ることになるでしょう。

項羽と劉邦の時代 (講談社選書メチエ)
項羽と劉邦の時代 (講談社選書メチエ)

古代中国の刑罰―髑髏が語るもの (中公新書)
古代中国の刑罰―髑髏が語るもの (中公新書)


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 前漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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