史記に従うとそうなるのですが、雲夢睡虎地秦簡によれば、昭王の52年(前255年)に王稽と張禄が死んだとの記録があるそうです。恐らくは史記の記述は蔡沢を持ち上げるためのもので、范雎は王稽に連座して処刑されたと考えるのが妥当なのでしょう。だとすれば、睨まれただけの恨みにも、一度食事を恵まれた恩にも必ず報いたという彼の生き方に相応しい最期であったと思います。
蔡沢もまた栄華を究めますが病を理由に宰相を退き、その後も始皇帝に至るまで仕え続けたとされます。彼らは幸い終わりを全うしましたが、引き際を誤ったせいで権力の絶頂から転げ落ちて悲惨な最期を迎える者については今後も見ることになります。
前257年には楚が魯を滅ぼしています。周公旦の子の伯禽が封じられたことで始まり、孔丘を出した名家ではありましたが、実権が王家から王族の孟孫子、叔孫子、季孫子の3家(三桓子)に移り、国内は分裂状態でした。孔丘が生きた時代に既に乱れていた魯は細々と命脈を保っていましたが、遂に楚に滅ぼされたのでした。
翌年の前256年には周が滅びます。既に蘇秦の時代に小国だった周は都の王畿の近隣のみを支配するだけの小国になっていましたから、秦にとっては周を滅ぼすのは赤子の手をひねるようなものでした。滅ぼさないほうが、「周を滅ぼした」という悪評を与えられないよう滅ぼさなかっただけです。
悪評など気にする必要を感じなくなった秦は周を攻撃、 第37代の王である赧(たん)王は土地を献上することで全面攻撃を防ぎ、身は秦の保護を受けることになりました。赧王の在位は59年だったそうですから、晩年に良い判断をしたように思います。なにせ、抵抗しても無駄に犠牲者を出すだけでしたから。
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