前299年、秦は楚を伐ってその8城を得、その上で楚へ書簡を送ります。曰く、「はじめ私と楚王とは兄弟の仲だと約束し、共に誓って太子陵を預けられるほどの深い仲であった。それなのに、太子陵は私の重臣を殺し、詫びもせずに逃げたため、私は憤慨を抑えられずに兵を送ったのです。聞いたところによると、貴国では太子を斉に送って和平を結んでいるとか。秦と楚とは国境を接しており、通婚して親しく結んでいます。両国が手を取り合ってこそ、諸国に号令をかけることができるのです。願わくば、武関でお会いし、盟約を結びましょう」とありました。
楚の懐王は、行けば騙されるのではないかと恐れ、行かなければそれを責められるのではないかと恐れます。臣下たちもまた、「秦は虎狼のような国で約束を守ったことなど無いのですから行ってはなりません」と反対する者、逆に「秦の善意を無視することなど出来ないでしょう」と賛成する者に分かれます。
結局、賛成派が勝利し、懐王は武漢を越えて秦へ入りました。ところが、途端に武関は閉ざされ、懐王は咸陽へ連れ去られてしまったのです。懐王は昭襄王と会見しますが、その扱いは対等のものではなく、目下に対するものでした。そして、秦は楚に土地の割譲を求めたのです。
懐王はずっと優柔不断な人物であり続けましたが、この時ばかりはこれまでの生き方を捨てたが如く、「秦王は私を騙した上、土地まで強要しようとするが、私は二度と秦の言うことは聞かぬ」と毅然として拒否しました。
秦の要求を拒否したことで、懐王は帰国の道を閉ざされました。後に、一度脱出に成功はするのですが、楚にたどり着く前に捕まってしまい、そのまま秦で亡くなることになります。楚の人々は懐王を憐れみ、彼は悲劇の王として語り継がれると共に、秦の統一後には「例え3戸になろうとも、秦を滅ぼすのは楚」との言葉が囁かれるようになるのです。
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