2018年06月12日

春秋戦国 商鞅3 追い詰められた商鞅は反乱を起こして敗北、一族は滅ぼされ、遺体は車裂きにされる 韓の法家申不害の形名参同術

 関所を抜けて魏に辿り着きますが、魏では公子?を騙し討ちした、恨み重なる商鞅の亡命を受け入れて秦の怒りを買う気などさらさらありません。魏で受け入れないだけではなく、魏を通過して外国へ逃げることさえ拒否しました。そして、秦へ送り返したのです。

 秦に連れ戻された商鞅は、領地の商で反乱を起こしますが、敗れて鄭の黽池で敗死します。商鞅を憎む恵文君は、「このような反逆者が二度と現れぬように」と商鞅の死体を車裂きにして引き回し、商鞅の一族を滅ぼしました。

 司馬遷は商鞅の行動に温情が見られないとし、秦で悪名を被ったのも故なきことではないと指摘しています。

 恵文君は商鞅を憎みましたが、それでも彼の変法を覆しはしませんでした。そこが呉起死後に変法を廃してしまった楚との違いです。そして、商鞅の富国強兵路線は、やがて秦を強国へと導いていくのです。

 商鞅に代わって樗里疾や張儀が表舞台に登場してきます。

商鞅の死の翌年、韓で申不害という、法家に属する人物が死去します。この申不害は、君主の個人的な資質によって統治がうまく行ったり失政に陥ったりすることを防ぐことを狙い、法による統治を求めたと伝えられます。

 『諸子百家』は「法の本質を客観的基準と考える立場の法思想家であった」としています。

 韓の名君昭侯に仕え、韓の黄金時代を築くことに貢献します。もっとも、韓はもともとが国土が狭くて人口が少ないことに加え、四方を強国に囲まれていたため発展性に乏しい国でしたので、黄金時代といっても他国に冠絶する強さを手に入れたわけではありません。私には、韓は成立当初から滅亡に至るまで、一時たりとも中国統一などとても期待できない勢力だったように思えます。

 申不害は成果を上げるために形名参同術という方法を用います。

 形名参同術とは、期首に部下に目標を申請(=名)させ、期末に実績(=形)と照らし合わせて形と名が一致するか調べ、査定を行い、賞罰を与えるという方法です。どうみても現代の企業のようですね。私同様に、出来の宜しくない人々には実に忌まわしい方法だったことでしょう。

諸子百家 (講談社学術文庫)
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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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