2018年06月11日

春秋戦国 商鞅2 庇護者孝公が死に、商鞅を恨む太子が即位すると商鞅は失脚、外国に逃げようとするも果たせない

 ところが、公孫鞅改め商鞅の栄光は長くは続きませんでした。あたかも、商鞅の凋落を見越したような会話があったことを、史記は記しています。

 趙良という人物が商鞅に面会します。そして、秦の穆公を覇者に導いた百里奚と商鞅を比較します。牧人の中から登用された百里奚に対し、商鞅は宦官を伝手に出世を求めたこと。百里奚が功を驕らず質素な生活を貫き外出するにも身一つだったのに、商鞅は富を貪り護衛なしでは外出しようともしないこと。そして、商鞅は刑罰を厳格に適用しているため、君主の一族を筆頭に多くの者の恨みを買っていることを挙げ、「徳をたのむ者は栄え、力をたのむ者は亡ぶ」の言葉を引いて商鞅の運命は草の上の朝露のようなものだと警鐘を鳴らしました。

 商鞅は趙良の言に従うことはなく、趙良は後難を避けるために外国へ逃れました。もっとも、金言に従ったとしても、この時点では既に手遅れだったかも知れません。

 公子?率いる魏軍を破った2年後で、趙良との会話の5ヶ月後に当たる前338年、孝公が死去し、太子駟が後を継いで恵文君となりました。

 太子駟の名前は過去に見ましたね。商鞅が最初に変法を担った際、法が厳格に適用されることを示すために、太子が法を破った際に「守役の公子虔を処罰し、教育係の公孫賈を入墨の刑に処した」ことを紹介していました。

 恵文君がこのことで商鞅を激しく憎んでいたことは想像に難いことではないでしょう。鼻削ぎにされて以来8年間、家から一歩も外に出ることの無かった公子虔が、千載一遇の好機とばかりに、恵文君へ「商鞅が反乱を企んでいる」と訴えます。

 商鞅は逃げ出して関所に至り、宿泊しようとします。しかし、関所の役人は「商君の法律により、手形を持たない者を泊めると私も罰されます」と拒否しました。商鞅は、「法の弊害はこれほどのものであったか」と嘆きます。もっとも、彼は他の者の同じような嘆きを圧殺する側だったわけですから、何をか言わんやという感じではありますが。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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