2017年11月13日

ローマ3 テオドシウス1世4 テオドシウス1世、エウゲニウスを捕殺しローマは最後の統一を迎える

 そのテオドシウス1世は西ローマの力による変更を認めませんでした。394年、東ローマ帝国は先に条約を結んだゴート族の援軍も仰ぎ、西ローマへ攻め込みます。こうして東西ローマは相討つことになったのです。

 両軍はフリギドゥス河畔で対峙します。それぞれおよそ10万の大軍を動員したというのですから、さぞ壮観だったことでしょう。

 ゴート王のアラリックが果敢に攻撃を仕掛けますが、西ローマ側の防御は固く、多くの犠牲を出したものの攻撃は跳ね返される形で初日は終わります。

 翌日、再び両軍は矛を交えます。戦闘中にボラと呼ばれる激しい北風が吹き下ろします。西ローマ軍は浮足立つ一方、東ローマ軍は天佑だと奮起して西ローマ軍を激しく攻撃、勝利をもぎ取ります。

 西帝エウゲニウスは捕らえられて処刑され、アルボガストは自害して果てました。こうしてローマは1人の皇帝の下に治められることになりました。そして、これが最後の統一ともなったのでした。

 上で見た通り、ゴート族は戦勝に少なくない貢献をしたのですが、戦後の論功行賞でその功績は無視され、リーダーのアラリックにも地位は与えられませんでした。憤慨したアラリックは同盟関係を解消、以後はローマと敵対するようになるのです。

 翌395年、テオドシウス1世は冬営中のミラノで重篤な病に冒されます。死に瀕した皇帝は、次子ホノリウスをコンスタンティノープルから呼び寄せ、スティリコを補佐役に付けました。己の死後を睨んでのことです。

 いよいよ病は篤くなり、死が避けられないと悟ったテオドシウス1世は東西ローマそれぞれの皇帝に自分の息子を充てるよう遺言し、世を去りました。

 こうして東ローマ皇帝として17歳のアルカディウスが、西ローマ皇帝としてまだ10歳のホノリウスが即位します。

 従来は複数の皇帝が並立していても、政治をコントロールするのはたった1人の皇帝のみで、他の皇帝は防衛に代表される限られた権限のみ与えられていました。当然、ガリアが独立を図ったような時期を除けば、誰もが1つの国であると考えていました。テトラルキアの時代でさえ、ローマ全体の舵取りはディオクレティアヌスの専権事項でした。このブログにおいて、便宜上東ローマと西ローマという呼称を用いてきましたが、これを独立した国同士の間柄と考えるのは誤りです。東日本、西日本くらいのイメージで思っておけば正しいでしょう。


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ラベル:ローマ
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | ローマ3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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