2017年03月23日

ローマ2 ポンペイ3 遺体の石膏化による最期の姿の復元と、その後の発掘方法

 一方、中には火事場泥棒の最中に死んだと見られる遺体もあるようです。その人物については、さっさと逃げれば良いものを、愚かな、としか思えません。

 石膏による処置は、カタストロフを目前にした人々の最期の奮闘をよく伝えてくれる役割を果たしましたが、一方で、法医学的な調査は遅れることになりました。史料の破壊を伴う処置はできるだけ避けるべきですが、遺跡が発見された年代を考えれば仕方がないでしょう。

 これより後に発見された遺体には石膏化が行われず、当時の人の生きていた時の姿を探る試みが続いています。例えば16歳の漁師の遺骨は上半身は立派な筋肉で覆われ、釣り糸を咥えた影響で歯がボロボロになっていることで、彼らが過酷な生活を送っていたことが分かるようになりました。

 今までの発掘で約2,000の遺体が確認されています。噴火時点のポンペイ及びその近郊の人口は2〜3万人と推測されております。発掘範囲を広げれば犠牲者数は更に増えるでしょうが、それでも2,000を大きく超える方が犠牲になったとは考えにくいでしょう。なんとなれば、市街地で発見されていない方の多くは火砕流の影響を受けないところまで逃げ切っただろうからです。

 ポンペイとは、どのような都市だったのでしょうか。

 今でこそ内陸になっているポンペイでしたが、噴火当時はナポリ湾に面し、ヴェスヴィオ山に挟まれた港湾都市で、商業が盛んでした。また、過去の火山降下物に含まれる豊かなリンのため、ブドウ栽培が盛んでした。そのため、ヴェスヴィオ山にはデュオニュソスが祀られました。

 ハンニバルの攻撃を受けることが無かったポンペイは、カプアのような都市からの亡命者を受け入れました。奴隷戦争でローマから逃れたスパルタカスたちが最初に篭ったのがこの山でしたね。ローマからの追討軍を攻撃する際、ブドウのツルを使ったのは、この豊かなブドウ資源があったから可能だったのです。同盟市戦争ではローマに反旗を翻し、スッラに占領されています。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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