2016年05月25日

ローマ 共和制の成立7 カミルス帰還しケルトを撃退

 カミルスが帰国したのは将にこのような時でした。彼は「ローマ人は金ではなく剣でお返しする」と宣言し、交渉を打ち切りました。名将が軍を率いたためか、ローマ軍はそれまでの劣勢を跳ね返し、ケルトを撃退します。更に続いてラテン人とウォルスキー人も撃破、ローマを滅亡の淵から救い上げます。

 尚、この時の戦いを元にローマはファランクス戦術を捨て、白兵戦戦術が磨かれたとされます。ローマ軍のファランクスは、マケドニアのサリッサより随分短いもので、2.45メートル程度でした。投げるのではなく、敵を突き刺すのに使われていました。この長さのせいで、マケドニアのファランクスより打撃力が劣ったのかもしれません。当初は市民を戦争時のみ徴用していて、軍務につくのは長くても1、2ヶ月でしたから、マケドニア式ファランクスを組織するには訓練時間が全く足りなかったからかもしれません。

 ファランクス戦術を放棄した後は、1つの軍団は4,200(平時)から5,000(戦時 但し、更に増員されることもありました)に加え、300の騎兵が組み合わされるようになります。騎兵は30騎からなる小隊10から成り、小隊は更に3つに分けられました。こうすることで小回りが効くようになったのです。武装も同様の狙いから軽装になっていきました。

 部隊は3つの戦列に分かれた隊形を組むようになります。特徴的なのは市松模様の布陣です。軽装兵が前哨として隊列の前に並び、両翼を騎兵が固めます。そしてハスタティ、プリンキペス、トリアリと呼ばれる3横列の陣が組まれたのです。各隊列は小隊ごとにまとまった集団が一定の間隔を開けて配置されました。最前列の隙間は2列目の隊が、2列目の隙間は3列目の隊がカバーするように並びます。

 こうした陣形の訓練を重ねたことは第2次ポエニ戦争の最終局面におけるザマの戦いでカルタゴの戦象をうまく戦列の間を通り抜けさせての無効化に繋がっているかもしれません。

 横隊はまず1列目のハスタティが攻撃を仕掛け、疲れたら2列目と交代します。更に2列目のプリンキペスも疲れたらトリアリの出番です。こうして常に意欲に満ちた兵士を最前線に集中させることができるようになり、短期決戦だけではなく長時間の戦いにも対応できるようになりました。もっとも、実際にはトリアリは予備戦力的なもので、高年齢の兵士が多く、実際に使われることはほとんどありませんでした。カンナエの戦いでは、トリアリの多くは野営地に残されていたほどです。

 この頃のローマ軍はギリシアと同じく武具は自弁でした。富裕層は立派な武具、普通の兵士は軽装でしたから、ギリシア同様に地位によって活躍の度合いは大きく違ったでしょう。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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