2016年04月02日

ヘレニズム期 セレウコス朝シリア5 中興の祖アンティオコス3世の栄光はローマにより翳る

 失地が続けばジリ貧になるばかりですが、中興の祖とも言える人物が登場します。

 6代目の王アンティオコス3世は、アンティオコス1世以来失われた地域を回復しようと東奔西走します。この拡大政策はかなりの成功を収め、東はインドから西は小アジアまでの広大な地域を支配下に収めます。

 西方ではプトレマイオス朝エジプトから南シリアとパレスチナ回復しました。この際、エルサレムには3年間の免税特権を与えています。

 しかし、特定の勢力が大きく伸長すると他の勢力には脅威となります。ローマはセレウコス朝シリアの動きに対抗し、セレウコス朝シリアは反ローマで一致するアイトリア連邦と結んでギリシアへ攻め込みます。しかし、この連合軍はテルモピュライでローマに敗北を喫し、セレウコス朝シリアはアイトリア連邦との連合を解消、小アジアへ帰還します。

 ローマはこの機を逃さず小スキピオに軍を率いさせ、セレウコス朝シリアを小アジアへ追います。こうして前190年にマグネシアの地で会戦が行われることになりました。

 アンティオコス3世率いるシリア軍は両翼に重装騎兵を擁し、ローマ騎兵を撃破して包囲殲滅する作戦を立てます。この作戦が予定通りに行けばシリアはローマに圧勝できたでしょう。しかし、戦場を霧が覆ったことで、アンティオコス3世の作戦は発動できなくなりました。ローマ軍右翼はこの隙にシリア軍左翼を攻撃、シリア軍は混乱して同士討ちを行う有様でした。

 シリア軍右翼に位置していたアンティオコス3世も軍を動かし、ローマを攻撃します。こちらはシリア軍が正面の騎兵を打ち破り、ローマの野営地に迫ります。

 しかし、野営地にはマケドニアのファランクスが待ち構えていました。シリア軍とファランクスが激戦を繰り広げる間にシリア軍左翼は崩壊してしまいます。結局、この左翼の敗北が戦場全体に波及し、シリア軍は死傷者5万とも言われる大打撃を受けて退きました。

 歴史好きの間で好まれる議論の1つに、もしアレクサンドロス3世が東方に向かうのではなく西方へ向かっていたら(あるいはインド遠征から帰還した後のアレクサンドロス3世が西方に向かったら)、歴史はどうなっていたか、というifがあります。ローマはペルシアと違って王を倒せば国が滅ぶような体制ではありませんし、最終的にファランクスを使った国はローマに滅ぼされていることから、ローマが勝利を収めるであろうという結論を出す人もいます。ただ、マグネシアの戦いを見ますと、重装騎兵はローマ兵を圧倒して追い返していて、その重装騎兵がファランクスに食い止められている事実からすれば、アレクサンドロス3世はローマを圧倒し、場合によっては滅亡させていたのではないかと私は思います。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ヘレニズム期 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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