2016年04月01日

ヘレニズム期 セレウコス朝シリア4 後漢の班超も訪れたパルティア

 パルティアはセレウコス朝シリアと領土を奪われたり逆に奪い返したりと攻防を繰り返します。在位前171年〜前138年のミトリダテス1世の時代、イラン高原とメソポタミアを支配しエクバタナも奪う等、勢力を広げます。セレウコスの名を冠するセレウキアまで占領したほどでした。

 前123年頃〜前87年頃の王ミトリダテス2世の時代にはユーフラテス川、コーカサス山脈からインダス川まで至る広い領土を得ます。なんとアルメニアまで侵入し、ローマと交渉を持つように、最盛期を迎えました。

 ミトリダテス2世時代にローマ、中国の漢と交易したことが知られています。シルクロード、海路(海のシルクロード)はパルティアを中継地にしていました。

 1世紀ほど後の事になりますが、後97年には後漢の班超が甘英を派遣し、甘英は安息国(パルティア)、条支国(シリア)を訪れます。166年に大秦王安敦(アントニヌス)の使者が海路漢へ向かったのも、パルティア経由のことでした。。

 セレウコス朝シリアが前63年に滅亡すると、ローマと直接国境を接するようになります。ローマは繰り返しパルティアへ侵入しますが、パルティアも黙っては居ません。前53年にはクラッススを破って敗死させました。カエサルはパルティア遠征準備中に暗殺され、ローマ内で権力闘争が行われた隙を突いて一時はシリアを奪うところまでいきますが、奪回されます。

 この後も前36年にはアントニウスを破るといった勝利もありますが、パルティア内の内訌もあり、前20年にオクタヴィアヌスと和平を講じます。アルメニアにはローマの宗主権を認め、国境はユーフラテス川と定められました。

 パルティアはアケメネス朝ペルシアと同様に総督制を敷き、交通網を整備しました。大貴族には自治が認められ、租税は取らずに直轄地からの収入で王室の財源を満たしていました。遊牧民らしく固定的な首都は持たず、王は7氏族の会議で選出されました。

 このことは逆を返せば中央集権化が徹底されなかったことを示しています。統一国家としての動きは劣りながらローマ相手に一歩も引かない戦いを繰り広げた背景には、彼らの強力な騎兵があったことは間違いないでしょう。

 残念なことに、彼らは自分たちの歴史を残すことには興味無かったらしく、史書の形で記録は残っていません。それでも、彼らがゾロアスター教を広めたことは、世界史に無視できない流れを与えているとは言えそうです。

 他にもアンティオコス1世はエジプトのプトレマイオス2世と戦って敗北し、フェニキアと小アジア海岸地域を失陥しています。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ヘレニズム期 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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