2016年03月30日

ヘレニズム期 セレウコス朝シリア2 東方での反乱で国土は縮小を余儀なくされる

 連綿と王位が継がれているかのように書いていますが、実際には反乱が起こって複数の王が並立した時期もあります。セレウコス朝シリア最後王アンティオコス13世はローマのポンペイウスに廃位され、殺害されます。セレウコス朝の領土はローマのシリア属州となり、ローマ支配に服することになりました。

 2代目のアンティオコス1世はガリア人の侵入を退けたことで救済王(ソテル)と称されますが、彼の時代には既に初代のセレウコス1世の代と比べて領土は縮小しています。

 リュシマコスの生前、彼の支配地であったアナトリア北西部のペルガモンでは、フィレタイロスが要塞ペルガモンを任されていました。フィレタイロスはセレウコスとリュシマコスの戦いではリュシマコスを裏切って要塞に籠り、リュシマコス敗死後にはそのままペルガモンの支配者となります。要塞には宝物庫も置かれていて、9,000タラントもの銀が保管されていたのがそっくりフィレタイロスの手に落ちたのです。

 ペルガモンは名目上こそセレウコス朝シリアに従っていましたが、かなりの自治を得ていました。銀9,000タラントのお陰で、財政はかなり豊かだったようです。

 フィレタイロスは去勢されていた(宦官であったという説があります)ため、彼の地位は甥のエウメネス1世(カルディアのエウメネスとは無関係です)が継ぎます。このエウメネス1世は前261年にセレウコス朝シリアに対して反乱を起こし、サルディス近郊でアンティオコス1世を撃破、独立を達成します。

 先にペルガモンの事情を片付けてしまいましょう。前241年にエウメネス1世が死に、アッタロス1世が後を継ぎます。アッタロス1世は翌年の前240年にガラティア人を破ると王を名乗ります。ローマとアンティゴノス朝マケドニアが争った第2次マケドニア戦争ではローマに与し、ローマと同盟を結びます。

 アッタロス1世はアンティゴノス朝マケドニアの東征に対してロードス島と共に抵抗すると同時にローマに支援を求めます。しかし、ローマの救援は及ばず、アッタロス1世は戦死、エウメネス2世が継ぎます。

 セレウコス朝シリアのアンティオコス3世が小アジアに侵入した際にはローマとともにシリアと戦い、マグネシアでの勝利に貢献します。

 ペルガモンは小アジアでは存在感を示し、ブリュギアからパンフュリアを支配しました。

 穀物、果実、鉱物資源、毛織物、羊毛と、交易品に恵まれたために国は豊かで、首都ペルガモンはゼウス大祭壇は壮麗な浮き彫りで有名でしたし、アレクサンドリアの大図書館に次ぐ規模の、非常に大きな図書館も造られました。ペルガモンの図書館が隆盛を極めたため、エジプトはパピルスの輸出を禁じたほどです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ヘレニズム期 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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