2016年03月17日

ヘレニズム期 ディアドコイ戦争9 アンティゴノス王位を称し、他のディアドコイもまた王を自称する

 前310年、マケドニアではカッサンドロスがアレクサンドロス3世の遺児アレクサンドロス4世とその母のロクサネを処刑してしまいました。更にその翌年には、ポリュペルコンに賄賂を送り、彼の保護下に居たアレクサンドロス3世とバルシネの間に生まれた庶子のヘラクレスを殺させます。こうしてアレクサンドロス3世の直系子孫は失われ、カッサンドロスがマケドニア王朝の唯一の王位継承者となります。

 前306年、アンティゴノスは息子のデメトリオスが海戦でエジプトを破ったことを機に、息子と共同統治の王となります。彼の即位が契機となり、プトレマイオスやセレウコスやカッサンドロス、リュシマコスは相次いで王を名乗っていきます。

 完全に余談になりますが、アレクサンドロス3世の肖像を飾る金貨はこのリュシマコスがトラキアで発行したものが最初です。死後40年以上が経ってからのこととされますので、もう少々後のことになりますね。

 アレクサンドロス3世急死後の混乱も随分と収まりを見せてきたことから、王を名乗っても差し支えが無くなったと判断した結果でしょう。また、ライバルが王を名乗れば、自分も名乗らなければ後塵を拝することになる気持ちもあったのではないでしょうか。

 三国時代、魏の曹操が王を名乗ると劉備は漢中王を名乗り、曹丕が禅譲により皇帝となると劉備もまた皇帝を、呉の孫権も大帝を称したのと同じことのように思います。

 アンティゴノスはアレクサンドロス3世の帝国を、分割するのではなく最大版図の状態に保とうとしたとされます。彼の野望は遥か遥か遠いものでした。

 セレウコスはこの間に東方へ食指を伸ばし、インダス川流域まで勢力を伸ばそうとします。しかし、インドではマウリア朝が成立しており、チャンドラグプタは大軍を率いてセレウコスを迎え撃ちます。セレウコスとチャンドラグプタが戦ったかどうかは定かではありません。はっきりしているのは、両者が協定を結んだことです。

 協定により、セレウコスはガンダーラ等の東部領域をマウリア朝へ割譲し、娘をチャンドラグプタの王子に嫁がせます。引き換えとして彼は500頭の戦象を手に入れました。以後、小アジア戦線でも戦象が多数見られるようになります。

 セレウコスが東方への拡大を放棄して西方へ帰還した頃、アンティゴノスはまだ一強状態でした。息子のデメトリオスは先に触れたエジプトを海戦で破った余勢を駆ってロードス島を包囲し、ギリシアへまたもや侵攻、アンティゴノスを盟主にしたヘラス同盟を組織します。尚、この際の攻城戦の巧妙さから、彼はポリオルケテス(攻城者、攻囲者)の渾名を得ます。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ヘレニズム期 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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