2016年01月03日

古代ギリシアの科学哲学 アリストテレス3 アテナイ時代とアレクサンドロス3世死後の逃亡時代

 当時のアカデメイアはスペウシッポスが既に死去していたため、アリストテレスと共にアテナイを去ったクセノクラテスが学頭となっていました。それほどの仲ですから、アカデメイアに戻れば重用されたのは間違いないでしょう。アリストテレスはしかし、アカデメイアへは戻りませんでした。彼はリュケイオンにアレクサンドロス3世からの支援を下に学園を作ったのです。

 なぜアカデメイアへ戻らなかったのかは定かではありません。しかし、プラトンとアリストテレスは思想がかなり異なります。戻ってプラトン流の教え方を強いられるのを嫌ったのでしょうか。

 アリストテレスは散歩道を歩きながら議論したため、彼らは逍遙学派と呼ばれました。アレクサンドロス3世の援助は大変なものだったようで、設備はかなり整っていたようです。図書館や博物館が併設された学園とのことですから、現在の大学に劣らないと言えるでしょう。後にアレクサンドリアに建てられる名高い図書館とムセイオンは、このリュケイオンに倣って作られることになります。

 アリストテレスは話術には長けていなかったらしく、声が小さく言葉がもつれがちだったそうです。そのため、授業のために原稿を準備していたそうで、これが今日残る彼の資料となっていきました。

 前323年、その生活も終わりを告げます。端緒となったのは彼のパトロンでもあったアレクサンドロス3世の急死です。アテナイはマケドニアの支配を受けていは居ましたが、決してその状態に満足してはいません。アレクサンドロス3世の死は反マケドニア派には千載一遇のチャンスに見えたのです。反マケドニアの機運が高まる中、アレクサンドロス3世の支援を受けていたアリストテレスもまた亡命に追いやられました。直接のきっかけは?神の罪で訴えられそうになったことです。アリストテレスは裁判を待たずにアテナイを去り、母の母国であったエウボイア島へと移り住みます。既に胃を患っていたアリストテレスは翌322年に世を去ります。享年62歳でした。

 遺言には、妻のピュティアスについて、どこに埋葬しようとも彼女の遺言通り彼女の遺骨も共に葬るべしとし、存命だったヘルピュリスについてはその世話を、特に再婚を望むなら良い相手を娶せて欲しいとあったそうです。それを考えますと、女性関係は華やかさにこそ欠けますが、満足の行くものだったのでしょう。

 アリストテレスは万学の祖と讃えられるほど多くのことに興味を示しました。天文学、生物学、力学、神学、倫理学、等々。その知識欲の貪欲さと知的好奇心の広さ、深さは見習いたいものです。

 そんなわけで、少々彼が唱えたことに触れましょう。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代ギリシアの科学哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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