2020年09月12日

三国志 少帝殺害 反董卓連合軍のうち、王匡がまっさきに董卓軍と戦うが、敗走する 董卓は邪魔になった廃皇帝劉辯を毒殺する

 孫堅はその後、魯陽に軍を進めて袁術と会見し、孫堅に破虜将軍と豫州刺史とを兼任させました。袁術によって位を与えられたわけですから、ここに孫堅は袁術の幕下に加わったことになります。

 反董卓連合軍全体の盟主となったのは、袁紹です。袁紹は先に記したとおり、何代にも渡って3公を輩出した名門中の名門出身で、霊帝直属の組織として設置された西園8校尉の実質的なトップの中軍校尉(上軍校尉は宦官で小黄門の蹇碩)に任じられるなど次世代リーダーとしての頭角を現していました。何進にも仕えて反宦官の動きで中心的な働きをしています。

 事実上、袁紹以外に反董卓連合軍のリーダーとなり得たのは、袁術ただ1人のみだったことでしょう。袁家の若きリーダーのうち袁紹が選ばれたのは、袁紹の方が広く士人と交流し、その信望を集めていたからにほかなりません。

 袁紹は自ら車騎将軍を名乗ると、曹操を行奮武将軍に任命するなど、反乱軍の組織を固めました。

 連合軍の中で真っ先に董卓軍と衝突したのは、河内太守の王匡です。

 王匡は泰山郡で集めた軍を河陽津に駐屯させて董卓を攻撃しようとしていました。董卓は平陰から河を渡るように見せかけて王匡の注意を引きつけておき、密かに精鋭を小平から河を渡らせ、河陽津の北で王匡に壊滅的なダメージを与えました。王匡は逃げ、再び軍を集めて反董卓連合軍に復帰します。

 その頃、董卓は弘農王に落とされた少帝辯の毒殺を図り、李儒に薬だと偽って毒を運ばせます。しかし、劉辯は薬だと言われて差し出された毒を「私は病んでおらぬ。私を殺そうとしているのであろう」と正しく見抜き、飲むことを拒否しました。しかし、董卓が少帝を殺そうとしている以上、逃れることは困難でした。

 劉辯は妻の唐姫と宮人を集めて最後の酒宴を開き、涙ながらに別れを告げると、毒を仰いで死にました。享年、18の若さでした。少帝には諡号も与えられなかったため、桓帝や零帝のような諱+帝という呼び方はありません。

 董卓は劉辯が無能だから有能な劉協を皇帝に担ごうとしたと説明されることもありますが、18歳の皇帝を除いて9歳の少年を即位させた理由が、皇帝親政を防ぐこと以外の理由ではないでしょう。父に疎まれ、母を殺され自身は地位を追われた挙げ句に自殺を強制されたのは、哀れを催してなりません。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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