2020年09月05日

三国志 少帝廃立 反対する者がいなくなったことで、董卓は少帝を廃して何皇后を殺害すると、自ら相国となる

 盧植の去った朝廷で、もはや董卓に反論する者はありませんでした。董卓は少帝の廃位を強行し、陳留王劉協を皇帝につけます。これが献帝です。劉辯には弘農王の位が与えられました。劉辯は死後も諱を与えられることはありませんでした。そのため、光武帝や明帝、桓帝、霊帝のように諡号+帝ではなく、「少帝」と呼ばれます(諡号が与えられず、少帝と呼ばれる皇帝は他にもいますので、個人を特定する場合には「少帝辯」と呼ばれます)。

 後漢には、既に地方軍閥の1人を掣肘する力すら残っていませんでした。事実上、ここに後漢は滅亡したと言っても過言ではないでしょう。朽木がまだ倒壊していない、というレベルの話です。

 続いて、何皇后が董太后を迫害して憂死させたことは礼に背くと理由をつけて何皇后を永楽宮に幽閉し、毒を飲ませて殺害します。

 翌月の10月、董卓は何皇后の葬儀を執り行い、献帝に哭泣させ、霊帝とともに葬らせました。この際に墓の副葬品をことごとく奪ったと伝えられます。

 後漢書皇后紀は何皇后が漢の寿命を傾けさせたと非難しています。確かに、何皇后はひどく嫉妬深くて女官たちは皆彼女を恐れたですとか、献帝の実母を毒殺させたといったエピソードから、何皇后の人格に極めて大きな問題があったことには私も同意します。しかし、国家を傾けた悪政については、その最大の責任は霊帝や、その政治を支えた宦官たちにこそ求めるべきでしょう。彼女の問題は彼女の人格にのみ留めておくべきです。私にはこのような無能な皇帝に全権力が集中する世襲制システムこそが悪政の根本だと思われてなりません。

 11月、董卓は自ら相国となります。

 名目的なものになっていたとは言え、臣下にとっての最高位は3公、すなわち太尉、司徒、司空でした。董卓はこの3公の上に立つ存在となったのです。

 相国という地位は、前漢成立直後、功臣の序列ナンバー1とされた蕭何が任命されたもので、蕭何死後は曹参が後を継いだものです。その後、呂氏政権において呂后の甥の呂産がこの地位に就いていますが、呂氏が滅んだ後は廃止されていました。これは、蕭何や曹参に並ぶ者は無いという、永久欠番的な地位だったのです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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