2020年09月01日

三国志 少帝廃立 董卓は少帝が暗愚であることを理由に廃立して劉協を立てようと諮るが、袁紹は反対する

 蔡邕は董卓によって中央に戻される前、流刑に処されていました。それでも有能な学者だった蔡邕は流刑地で後漢の制度史についてまとめています。では、なぜ蔡邕は最終的に董卓の招聘を受けたのでしょうか。また、招聘を受けた後はそれなりに董卓に協力的だったのでしょうか。『三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書) - 渡邉 義浩』は、「蔡邕は、自分を登用してくれた董卓のもとで、自らがまとめた漢のシステムを復興し、後漢末の混乱を収拾して、新しい世界を想像することを目指したのである」と指摘しています。

 彼は無批判に董卓に従ったわけではなく、董卓に協力しながらも反対すべき時には反対を貫きました。その姿をもう少し後に見ることになるでしょう。そして、蔡邕が董卓に協力した結果についても、また見ることになります。

 人事を固めた董卓は、「政治において最も重要なのは天地、次は君臣である。しかるに、皇帝は暗愚惰弱で、祖先の霊廟に仕え天下の主となることはできぬ。そこで、殷の伊尹や漢の大将軍霍光に倣って陳留王を立てようと思うがどうか」と少帝の廃立を諮問します。

 袁紹は「今上は春秋に富み(将来が期待できること)、天下に噂されるような不品行などありません。もし公が礼に違い、情に任せて嫡男を廃して庶出の皇子を立てれば衆議は揉めることでしょう」と主張しました。

 そもそも、董卓が少帝を廃立しようとするのは、宦官誅滅の際、年長である少帝よりも陳留王劉協の方がしっかり受け答えをしたことから、劉協の方が有能だと判断してのことだとも伝えられます。この話は『三国志董卓伝』に引く『献帝紀』に見えるものですが、『献帝紀』はその性質上献帝について悪く書くはずがありませんし、そもそも年長者を排除して年少者を立てるのは傀儡に都合が良いからに他なりません。その意図は邪なものに他ならず、袁紹の言葉はもっともでしょう。


三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書) - 渡邉 義浩
三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書) - 渡邉 義浩

正史 三国志〈1〉魏書 1 (ちくま学芸文庫) - 陳 寿, 裴 松之, 今鷹 真, 井波 律子
正史 三国志〈1〉魏書 1 (ちくま学芸文庫) - 陳 寿, 裴 松之, 今鷹 真, 井波 律子



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2020年09月02日

三国志 盧植と袁紹の逃亡 董卓に反対した盧植と袁紹は董卓を止められず、後難を恐れて逃亡する 董卓は袁紹を渤海太守として懐柔を図る

私にはこのタイミングで劉氏を絶やして良いとまで董卓が言明したとは思えませんが……。

 また、盧植は朝堂において堂々と少帝劉辯廃立に反対しました。史書は朝堂で反対したのは盧植ただ1人だったと記します。とすると、袁紹の反対は朝堂のことではなく、もっと内々の話だったのかもしれません。

 盧植は「『尚書』を調べてみますと、殷王太甲は位についた後にでたらめであったために伊尹はこれを廃し、漢の昌邑王は即位して27日の内に千を超える罪を犯したために霍光が廃したのです。今生陛下は年もお若く、ご行為にも加湿はございません。伊尹や霍光とは比べるべくもありません」と反対します。

 董卓は怒って会議から退席し、盧植を処刑しようとしました。蔡?や議郎の彭伯が「盧尚書は国の大儒で、人望の的です。彼を害すと天下は恐れ震え上がるでしょう」と董卓を諌めたので、盧植は免職されるだけで済みました。

 盧植は年老いて病もあることから、密かに洛陽を出ていきます。董卓は盧植を追わせましたが、盧植に追いつくことはできず、盧植は故郷に帰りました。

 また、袁隗と相談することを名目に会議から退室した袁紹は「天下の強者はただ董公1人ではない」というと、節を洛陽城の門に懸けると冀州へ逃亡しました。

 董卓は激怒し、袁紹の首に懸賞金をかけました。侍中の周、城門校尉の伍瓊、鄭泰らは「廃立は天下の大事でありまして、常人の関与できることではございません。袁紹は恐れて出奔しただけで、他に遠謀があるわけではございません。今、彼に懸賞金をかけて追わせれば、追い詰められて反乱を起こすでしょう。袁氏は4世に渡って国家に功績を立ててきた家で、その恩義を受けた者はあちこちにおります。もし豪傑を集めて民を率いさせ、他の者が追随すれば、山東の支配は失われましょう。袁紹を許して1つの郡の太守にでも任命すれば、袁紹は罪を逃れられたことを喜び、後顧の憂いはなくなるでしょう」と袁紹のために董卓に進言しました。董卓はその言葉の正しさを認め、袁紹を渤海太守とし、侯に封じました。


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2020年09月03日

三国志 曹操逃亡 曹操は董卓政権は失敗に終わると判断して洛陽を脱する 故郷への途中、恩人の呂伯奢の一族を殺す事件が起こる

 それだけ袁一族の力が大きかったと考えるべきでしょう。実際、長安に残った袁一族はこの際に処刑されておりませんから。

 曹操もまた故郷の陳留へ向けて逃げ出します。董卓は曹操を驍騎校尉に任じて参謀にしようとしたのですが、曹操は董卓が成功することはないと考えていたのです。

 あるいは、曹操は袁紹と示し合わせて洛陽を脱出したのかもしれません。

 曹操は姓名を偽って虎牢関を脱出することはできたのですが、中牟県を通った際に亭長に怪しまれ、勾留されてしまいます。町の中にたまたま曹操を見分けることができる者がおり、そのものが頼み込んだことで曹操は逃れることができたと三国志武帝紀は記します。武帝紀に引く『世語』によると、気がついたのは功労を司る属官である功曹が曹操に気づきますが、世の中が乱れている中で早々のような俊傑を勾留することはよろしくないと考えて、曹操を釈放させたと記します。

 三国志演義は世語に基づいた上で、曹操を逃がすように取り計らった人物を陳宮だとしています。そして、陳宮は曹操を見込んで一緒に逃げたのでした。

 その逃亡中、三国志武帝紀に引く『魏書』や『魏晋世語』、『雑記』には旧知の呂伯奢の家族らを殺害した話が見えます(三国志の本文には見えません)。

 254年から256年、まだ魏が存在した時代に書かれた王沈の『魏書』は曹操は旧知の呂伯奢の家に立ち寄るが呂伯奢は留守で、その子どもたちは食客とともに曹操を脅かして持ち物を奪おうとしたので、曹操は自ら数人を撃ち殺した、と記しています。一方、すでに魏の滅んだ300年ごろに成立した『魏晋世語』によれば、呂伯奢が留守なのは同じなのですが、曹操は自分が殺されるのではないかと疑いを抱いて呂伯奢の家族たちを殺して立ち去ったとしています。

 魏に対する遠慮をしなくて良いためか、すでに『魏書』と『魏晋世語』で曹操の振る舞いに差が現れていますね。前者は自衛だったのですが、後者だと曹操の疑心暗鬼によるものです。


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2020年09月04日

三国志 呂伯奢一家殺害事件 曹操は呂伯奢の家族を殺したとあるが、異伝を見ると話の流れがぜんぜん違う 何が正しいのか

 『魏晋世語』 は裴松之が「記事は乏しく秩序もなく劣っているが、時に珍しい記事があるので、よく読まれている」(『三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書) - 渡邉 義浩』)と裴松之が記す、質の低いものです。

 また、東晋の330年ごろの『異同雑語』には、呂伯奢の家人が食事の準備をしていると、皿の鳴る音を聞いて自分を始末しようとしていると思い込み、夜の内に彼らを殺して逃げる。「私が人を裏切ることがあっても、他人に裏切らせるようなことはせぬ」と言った、と記します。ただ『異道雑語』もまた、史料を書き換えたり奇説を好んで採用するなどの問題を抱えているとのことです。

 陳寿は皇帝の認可を得るためにも迂闊なことなど書くわけに行きませんでしたが、裴松之は「疑わしい出典でも、こんな話があるよ」という質の低い伝説も書き残すことができたので、そこに両者の違いや民間でどのような話が語り継がれていたかを見て楽しむのが良いかと思います。

 三国志演義は更に、曹操が逃げる途中で呂伯奢と遭って一度は別れますが、家族が殺されたことを知った呂伯奢が通報するかもしれないと思い直して呂伯奢を追いかけて斬るという物語を追加しています。そして、曹操が「私が裏切ったとしても、他人に裏切らせるようなことはせぬ」と言ったのを聞いた陳宮は曹操に見切りを付けて曹操と袂を分かつことになります。そして、この時に陳宮が抱いた曹操への不満は、後の陳宮の行動に結びついていきます。こちらについては後に見ることになります。

 あるいは呂伯奢の家族を殺したことは事実かもしれませんが、だんだん話が詳しくなっていくのは不自然です。少なくとも詳しくなっていく部分は全てお話に過ぎないと言うべきでしょう。私達としては陳寿の本文に従うのが無難なようです

 9月、董卓は再び群臣を集めると、「何太后は永楽太后(霊帝の母の董皇后)を圧迫して憂いのうちに死なせた。嫁と姑の間の礼に反し、親に仕えるという道徳も持たぬ。天子は年相応の知能を持たず、柔弱で主君としての資格に欠ける。伊尹が主君を放逐し、霍光が王を廃したことは史書に記されており、誰もがこぞって褒めそやしている。陳留王は仁愛に満ち、孝行である。帝位につかれるのがふさわしい」と主張します。

三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書) - 渡邉 義浩
三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書) - 渡邉 義浩


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2020年09月05日

三国志 少帝廃立 反対する者がいなくなったことで、董卓は少帝を廃して何皇后を殺害すると、自ら相国となる

 盧植の去った朝廷で、もはや董卓に反論する者はありませんでした。董卓は少帝の廃位を強行し、陳留王劉協を皇帝につけます。これが献帝です。劉辯には弘農王の位が与えられました。劉辯は死後も諱を与えられることはありませんでした。そのため、光武帝や明帝、桓帝、霊帝のように諡号+帝ではなく、「少帝」と呼ばれます(諡号が与えられず、少帝と呼ばれる皇帝は他にもいますので、個人を特定する場合には「少帝辯」と呼ばれます)。

 後漢には、既に地方軍閥の1人を掣肘する力すら残っていませんでした。事実上、ここに後漢は滅亡したと言っても過言ではないでしょう。朽木がまだ倒壊していない、というレベルの話です。

 続いて、何皇后が董太后を迫害して憂死させたことは礼に背くと理由をつけて何皇后を永楽宮に幽閉し、毒を飲ませて殺害します。

 翌月の10月、董卓は何皇后の葬儀を執り行い、献帝に哭泣させ、霊帝とともに葬らせました。この際に墓の副葬品をことごとく奪ったと伝えられます。

 後漢書皇后紀は何皇后が漢の寿命を傾けさせたと非難しています。確かに、何皇后はひどく嫉妬深くて女官たちは皆彼女を恐れたですとか、献帝の実母を毒殺させたといったエピソードから、何皇后の人格に極めて大きな問題があったことには私も同意します。しかし、国家を傾けた悪政については、その最大の責任は霊帝や、その政治を支えた宦官たちにこそ求めるべきでしょう。彼女の問題は彼女の人格にのみ留めておくべきです。私にはこのような無能な皇帝に全権力が集中する世襲制システムこそが悪政の根本だと思われてなりません。

 11月、董卓は自ら相国となります。

 名目的なものになっていたとは言え、臣下にとっての最高位は3公、すなわち太尉、司徒、司空でした。董卓はこの3公の上に立つ存在となったのです。

 相国という地位は、前漢成立直後、功臣の序列ナンバー1とされた蕭何が任命されたもので、蕭何死後は曹参が後を継いだものです。その後、呂氏政権において呂后の甥の呂産がこの地位に就いていますが、呂氏が滅んだ後は廃止されていました。これは、蕭何や曹参に並ぶ者は無いという、永久欠番的な地位だったのです。


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